2008年12月05日
南アフリカ共和国ヨハネスブルグ都市圏の住宅街シャロン・パークで暮らすルーシュ一家は、父ソリー(39歳)、母フランシス(37歳)、長女ダニエル(15歳)、次女ビアンカ(11歳)の4人家族。このルーシュ家では、約1か月も早い11月28日にクリスマスのキャンドルを囲むことになった。これには切実な理由があった。
長女ダニエルの命のタイムリミットが迫っていたのだ。モルヒネで痛みを抑えながら生活していて自力で動き回ることもできるが、本来のクリスマスまで持つかどうか。
ささやかなパーティの席で、ダニエルは母と父からプレゼントを手渡された。ラッピングをほどくと、前からほしがっていた携帯電話が中に入っていた。彼女は満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう。お父さん、お母さん」
「最初に誰に電話するのかな?」
「一番の仲良しのモネルに決まってるわ」
その携帯電話を使う時間さえ彼女に残されていなかったとは、このとき両親もダニエル自身も予想だにしていなかった。
パーティが終わり、片付けが済んで、家族がそれぞれ寝室に入ったころ、ダニエルが母の寝室にやって来た。「ねえ、お母さん、外に出て遊んでもいいかな?」
「この子ったら何を言い出すのかしら。外はもう真っ暗よ。およしなさい」
「じゃあ、お母さんと同じベッドで寝てもいい?」
「いいわよ」
母と娘は、思い出話やそのほかいろんなことを語り合った。いつしかダニエルは安らかな眠りに就いていた。母は午前3時頃、ダニエルの体が痛まないように体の向きを変えてあげた。
そして、母が午前6時に目を覚ましたとき、ダニエルは瞳を大きく見開いたまま息絶えていた。しかし、その表情は安らかで、苦しんだ様子はなかった。
両親もそして本人も、クリスマスまでは持たないかもしれないと覚悟していた。だが、まさか1か月も前倒しでパーティを開いた翌朝に天に召されるとは。
ダニエルが目を開いたまま亡くなったことを知らされた叔母(母フランシスの姉)は、こう言った。「ダニエルは、お迎えに来た神様の姿を目に焼き付けたのよ」
ダニエルは、ユーイング肉腫(骨肉腫の一種)を患っていた。いったんはガンが縮退して退院し、学校にも復学した。しかし、しばらくすると腰痛を訴えるようになった。病院の医師らは、彼女が長い間ベッド生活を続けていたせいで腰の痛みを覚えているのだと判断し、リハビリを受けさせることにした。
この病院、もし日本なら医療過誤で訴えられるかもしれない。それは誤診だったのだ。医師らが診断を見直したときには、すでにガンがあちこちに転移していた。回復の見込みはなく、余命数ヶ月の宣告。
ルーシュ一家は、ダニエルの医療費を捻出するために持ち家を売り、トレーラーハウスでの生活を余儀なくされた。しかし、まもなく親類が金銭を援助し、一家はシャロン・パークの住宅街に移り住んだのだった。
本稿は、南アのアフリカーンス語紙Beeldの記事に基づいている。Beeld紙では、これまでにも二度ほど、ダニエルのことを記事にしていた。(なお、アフリカーンス語とはオランダ語の南ア方言だが、ルーシュ家もオランダ移民系と思われる)。
1か月も早いクリスマスだったが、それはダニエルにとって決して早すぎるクリスマスではなかった。もうその日しか、彼女には残されていなかった。その最後の日にクリスマスを迎えることができたのだ。
【付記】
昨日の記事には大勢の方から激励のコメントをいただいた。本当に有り難いと感じている。
誰もが「ありえなーい!」と叫ぶような強烈なネタはなかなか取り上げられないかもしれないが、まあ私自身の心に響いた話ならぼちぼちこんなふうに取り上げていこうと思う。
上記の話は、いわゆるお涙頂戴系に見える。しかし、世界一の凶悪犯罪都市ヨハネスブルグの圏内でも、こんなに純粋に悲しく切ない人間ドラマが展開されていたりするのだ、という視点から眺めてみるのも一つかもしれない。
周囲の環境や取り巻く社会がどうであれ、個々の人間は各自なりの幸せと悲しみの中に生きている。今の日本の社会の荒廃ぶりも相当なものだと思うが、われわれも各人なりに喜びや辛さが行き交う毎日を生きている。
■ Source: News24.com
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「一番の仲良しのモネルに決まってるわ」
その携帯電話を使う時間さえ彼女に残されていなかったとは、このとき両親もダニエル自身も予想だにしていなかった。
パーティが終わり、片付けが済んで、家族がそれぞれ寝室に入ったころ、ダニエルが母の寝室にやって来た。「ねえ、お母さん、外に出て遊んでもいいかな?」
「この子ったら何を言い出すのかしら。外はもう真っ暗よ。およしなさい」
「じゃあ、お母さんと同じベッドで寝てもいい?」
「いいわよ」
母と娘は、思い出話やそのほかいろんなことを語り合った。いつしかダニエルは安らかな眠りに就いていた。母は午前3時頃、ダニエルの体が痛まないように体の向きを変えてあげた。
そして、母が午前6時に目を覚ましたとき、ダニエルは瞳を大きく見開いたまま息絶えていた。しかし、その表情は安らかで、苦しんだ様子はなかった。
両親もそして本人も、クリスマスまでは持たないかもしれないと覚悟していた。だが、まさか1か月も前倒しでパーティを開いた翌朝に天に召されるとは。
ダニエルが目を開いたまま亡くなったことを知らされた叔母(母フランシスの姉)は、こう言った。「ダニエルは、お迎えに来た神様の姿を目に焼き付けたのよ」
ダニエルは、ユーイング肉腫(骨肉腫の一種)を患っていた。いったんはガンが縮退して退院し、学校にも復学した。しかし、しばらくすると腰痛を訴えるようになった。病院の医師らは、彼女が長い間ベッド生活を続けていたせいで腰の痛みを覚えているのだと判断し、リハビリを受けさせることにした。
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本稿は、南アのアフリカーンス語紙Beeldの記事に基づいている。Beeld紙では、これまでにも二度ほど、ダニエルのことを記事にしていた。(なお、アフリカーンス語とはオランダ語の南ア方言だが、ルーシュ家もオランダ移民系と思われる)。
1か月も早いクリスマスだったが、それはダニエルにとって決して早すぎるクリスマスではなかった。もうその日しか、彼女には残されていなかった。その最後の日にクリスマスを迎えることができたのだ。
【付記】
昨日の記事には大勢の方から激励のコメントをいただいた。本当に有り難いと感じている。
誰もが「ありえなーい!」と叫ぶような強烈なネタはなかなか取り上げられないかもしれないが、まあ私自身の心に響いた話ならぼちぼちこんなふうに取り上げていこうと思う。
上記の話は、いわゆるお涙頂戴系に見える。しかし、世界一の凶悪犯罪都市ヨハネスブルグの圏内でも、こんなに純粋に悲しく切ない人間ドラマが展開されていたりするのだ、という視点から眺めてみるのも一つかもしれない。
周囲の環境や取り巻く社会がどうであれ、個々の人間は各自なりの幸せと悲しみの中に生きている。今の日本の社会の荒廃ぶりも相当なものだと思うが、われわれも各人なりに喜びや辛さが行き交う毎日を生きている。
■ Source: News24.com
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この記事へのコメント
2. Posted by な 2008年12月05日 09:51
お母さんはびっくりしたりショック受けたりで大変だっただろうな
3. Posted by shi-ta 2008年12月05日 18:50
彼女自身は(言動をみると)わかっていたんでしょうか、と思ってしまいますね・・・
4. Posted by かずき 2008年12月05日 23:21
ゥ分の死の瞬間ってやっぱ意ッできるのかな?
5. Posted by カシール 2008年12月06日 21:48

7. Posted by う 2008年12月14日 09:24
最後の最後だけでも、幸せだったかもしれんね・・・