2006年04月28日
英国ウェールズのキャス・アンダーヒルさん(21歳)は、大学で芸術を専攻している女子大生。彼女は、芸術における女性の役割を今一度問い直したいと考え、スウォンジ市の中心街にランジェリーだけの姿で登場することにした。
街のど真ん中にランジェリー姿の若い女性がいるのを見た通行人は、みなびっくりする。その大胆さを賞賛する人もいれば、冷やかしの声や罵声を浴びせる人たちもいる。彼女は自分に興味を持ってくれた通行人に視線を返し、「私の体で着せ替え人形ごっこをしてみませんか?」と声をかける。
つまり、キャスさんは自ら等身大の着せ替え人形を演じることにしたのである。 ただし、着せ替え人形と言っても、路上に置かれた衣裳箱に用意されているのは、シャツとジーンズだけ。着せ替えというよりは、単にそれらを下着姿の彼女に着せるだけである。
キャスさんは言う。「芸術の世界では、いまだに“女はモデルをするだけだ”という固定観念があります。私はモデルと芸術家の両方を演じることで、そんな固定観念に一石を投じてみたいと思ったのです」
キャスさんに服を着せようとするプレイヤーは、当然のことながら、彼女の体のあちこちにタッチすることになる。キャスさんのパフォーマンス・アートにとって、これが最も重要なポイントだった。
「あえて私の体に触れさせるのです。そして、相手が示す優しさ、接触の親密さ、セクシャルな気配、気遣いなどを感じ取りながら、見知らぬ人たちと触れ合いを持つ。それらすべてが私の目的の中に含まれていました」
接触の“親密さ”を高めるために、彼女はあえてボタンの数が多く、着せるのに手間がかかるシャツを用意していた。
ただし、自ずとブレーキが利く衆人環境とは言え、あまりに“親密”になりすぎても困る。そこで、「舞台脇」には彼女の学友たちが待機していた。いざというときは、学友たちが助けに来てくれる手はずができていた。
いったん着せ替えごっこが始まると、キャスさんは着せ替え人形になりきる。自分からは体や手足を動かさない。プレイヤーは、キャスさんの体に触れて姿勢を変えなければならない。手足を直接持って動かさなければならない。親密な接触が生じる。
「謝りながら服を着せてくれた人も、1人か2人はいましたね」とキャスさんは言う。
キャスさんが自分でジーンズを履くときは、もぞもぞ足やヒップを動かしながらジーンズをずり上げていく。だが、自分からは身動きしないキャスさんにプレーヤーがジーンズを履かせるのは容易ではなかったようだ。「私のヒップに触れないように履かせようとして苦労していましたね」
「でも、お子さんをお持ちの女性も何人かいました。彼女たちは、手馴れたものでしたよ」
こうして見知らぬ人たちと触れ合った今回のパフォーマンス・アートは、その目的を十分に果たしたとキャスさんは感じている。
彼女は、こんなふうに付け加えている。「今まで生きてきて、こんなに多くの人の注目を浴びたことはありません。私に対する反応も人によってまちまちでしたね」
そりゃ、こんな前代未聞な光景を目にした通行人の立場からすれば、どう反応してよいか判断に苦しむはずである。賛否両論に分かれるというよりは、これをどう受け止めるべきかがわからない人の方が多いはず。
ただのアトラクションならまだいいのだが、ご本人はアートのつもりでいる。ま、キャスさんを着せ替え人形として扱えば、キャスさん本人が描くアートが完成するわけなので、お互いのベクトルが違う方向を向いていてもかまわない。
彼女がこのパフォーマンスを通じて「アートにおける女の役割はモデルだけだという固定観念に一石を投じる」ことができたとは、ちょっと考えにくい。ほとんどのプレーヤーにとって、そんなことは(説明を受けていたとしても)どうでもよかったのではないだろうか。
■ Source: icWales - In name of art
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つまり、キャスさんは自ら等身大の着せ替え人形を演じることにしたのである。 ただし、着せ替え人形と言っても、路上に置かれた衣裳箱に用意されているのは、シャツとジーンズだけ。着せ替えというよりは、単にそれらを下着姿の彼女に着せるだけである。
キャスさんは言う。「芸術の世界では、いまだに“女はモデルをするだけだ”という固定観念があります。私はモデルと芸術家の両方を演じることで、そんな固定観念に一石を投じてみたいと思ったのです」
キャスさんに服を着せようとするプレイヤーは、当然のことながら、彼女の体のあちこちにタッチすることになる。キャスさんのパフォーマンス・アートにとって、これが最も重要なポイントだった。
「あえて私の体に触れさせるのです。そして、相手が示す優しさ、接触の親密さ、セクシャルな気配、気遣いなどを感じ取りながら、見知らぬ人たちと触れ合いを持つ。それらすべてが私の目的の中に含まれていました」
接触の“親密さ”を高めるために、彼女はあえてボタンの数が多く、着せるのに手間がかかるシャツを用意していた。
ただし、自ずとブレーキが利く衆人環境とは言え、あまりに“親密”になりすぎても困る。そこで、「舞台脇」には彼女の学友たちが待機していた。いざというときは、学友たちが助けに来てくれる手はずができていた。
いったん着せ替えごっこが始まると、キャスさんは着せ替え人形になりきる。自分からは体や手足を動かさない。プレイヤーは、キャスさんの体に触れて姿勢を変えなければならない。手足を直接持って動かさなければならない。親密な接触が生じる。
「謝りながら服を着せてくれた人も、1人か2人はいましたね」とキャスさんは言う。
キャスさんが自分でジーンズを履くときは、もぞもぞ足やヒップを動かしながらジーンズをずり上げていく。だが、自分からは身動きしないキャスさんにプレーヤーがジーンズを履かせるのは容易ではなかったようだ。「私のヒップに触れないように履かせようとして苦労していましたね」
「でも、お子さんをお持ちの女性も何人かいました。彼女たちは、手馴れたものでしたよ」
こうして見知らぬ人たちと触れ合った今回のパフォーマンス・アートは、その目的を十分に果たしたとキャスさんは感じている。
彼女は、こんなふうに付け加えている。「今まで生きてきて、こんなに多くの人の注目を浴びたことはありません。私に対する反応も人によってまちまちでしたね」
そりゃ、こんな前代未聞な光景を目にした通行人の立場からすれば、どう反応してよいか判断に苦しむはずである。賛否両論に分かれるというよりは、これをどう受け止めるべきかがわからない人の方が多いはず。
ただのアトラクションならまだいいのだが、ご本人はアートのつもりでいる。ま、キャスさんを着せ替え人形として扱えば、キャスさん本人が描くアートが完成するわけなので、お互いのベクトルが違う方向を向いていてもかまわない。
彼女がこのパフォーマンスを通じて「アートにおける女の役割はモデルだけだという固定観念に一石を投じる」ことができたとは、ちょっと考えにくい。ほとんどのプレーヤーにとって、そんなことは(説明を受けていたとしても)どうでもよかったのではないだろうか。
独りよがり指数5 | ■■■■■□□□□□ |
■ Source: icWales - In name of art
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