G- なんでも評点:幼獣記

2020年11月27日

幼獣記


2020-12-14日夕刻更新。某賞への応募用原稿をスマホでの自己確認用にアップロードしています。応募のタイミングで削除します。誤字脱字は多少残っているかと思います。


幼獣記

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栗色の髪をした女の子が黄色い羽毛に包まれた鳥のヒヨコのような生き物を手首に止まらせている。そのレモンのような黄色さは、人々がヒヨコと必ず連想する「想像上の色」だ。純粋に黄色いヒヨコはまず実在しない。そして、このヒヨコも現在は実在しないはずの鳥の祖先のヒヨコだ。女児の手首を掴むヒヨコの足先には猛禽類のような獰猛な爪が備わっている。だがヒヨコは爪を立てずにやさしく留まっている。
ヒヨコは、ときどき首を縦に振りながら鋭い眼光を宿している。前方数キロ先まで見通せる瞳だ。その瞳をT字状に結んで垂直に下りた先に鼻孔と一体化したくちばしがある。くちばしが小さな一対の前脚と組み合わさって獲物の肉を割くことができる。女児は自由になっている側の手でヒヨコの羽毛を撫でて、その恐ろし気なくちばしにもやさしく触れる。

磯に棲息し、甲殻類や貝類を好む肉食魚にも似たくちばしだが、女児が指を合わせると、人慣れしたインコのように丸っこい舌先を転がして彼女の指先を舐める。羽ばたいて空を飛ぶ翼を欠いたヒヨコは、鳥の子供ではない。

鳥ではないが鳥のように―猛禽類のように高く澄んだ声で啼く。敵がいない彼らならではの、どこまでも響く声だ。

01★

日本はここ数年で大きく変わった。今や日本の首都は東京ではない。皇居は京都に戻り、国会議事堂や最高裁判所を含む首都機能は、かつて大阪都構想を企てたが未遂に終わった大阪にある。二年前、トラフが動いた。懸念されていた南海トラフが動いたのではなく、相模トラフが動いた。発生時刻は、午後八時ごろ。房総半島が高さ二十メートルの津波に襲われ、毎夜のような酒池肉林の宴で賑わっていた都心部に大規模な火災が広がった。


古市萠子(みょうこ)は娘を女手ひとつで育てている。萠子は相模大震災まで出版社で編集者の仕事をしていた。舞はルポライターの談との間に生まれた子だ。談は、世界の危険国で十年近く暮らして帰国後に執筆した三作の著作があったが、二年前、四作目の執筆中に滞在先の首都圏で震災に遭い、連絡が取れなくなった。死者・行方不明者は、五十万人に及んだ。

壊滅的被害を免れた大阪で舞は健やかに育っていた。震災まで萠子は、当時の東京集中型の日本では珍しくも大阪に本社を置いていた中堅出版社で編集者の職に就いていた。編集者として担当していたノンフィクションライターが古市談だった。担当してから三年後に萠子は談と入籍し、舞が生まれた。出版社は大阪に本拠を置きながら東京から全国展開していたが、出版不況で弱っていたこともあり、多数の出版社とともに相模大震災で大打撃を受け、営業を停止した。

あまりにも極端な一極集中に陥っていた首都東京が壊滅した後、政府要人の多くを失った日本国政府は急ピッチで再建に取り掛かったが、東京が未来永劫に渡って首都であり続けると信じる役人や政治家が多数を占めていたことから綿密な再建計画が事前に策定されていたわけでもなく、無軌道な改変や新設が目立った。

二次大戦後の日本はスパイ天国とも呼ばれていたが、震災後、人道的救援活動を諸外国から受ける中で、善意を装っているがゆえ洗い出しが容易ならざる工作員たちによるスパイ活動を防止する必要に迫られた。そこで、そのための法が続々と整備され、水面下では多数の諜報機関が設立された。実は、萠子も、そんな諜報機関の一つにリクルートされ、舞を経済的には不自由なく育てることができている。

萠子は、現在、国立機関「AAA」(Anti Aggression Agency)の職員として働いている。国立・公立の機関が英語名を名乗るのは組織の実態を分かりにくくする常套手段だが」、日本語に直訳すれば「侵略(外患)対策局」などとなるだろう。外国からの侵略行為を検出し、それに対抗する諜報機関である。有罪となれば必ず死刑が言い渡される「外患誘致罪」を適用することまでをも視野に入れた国防省所管の法執行機関である(「防衛省」の名称は世界標準の「国防省」に改められた。英語訳はどちらもDefence Ministryだが)。前線で捜査に加わる職員には、必要に応じて銃器の携行が許される。萠子はまだ銃器を携行したことがないが、基本的な射撃訓練は受けた。

萠子がAAAにリクルートされたのは、前職の経験を評価されてのことだったが、防衛大学の出身でもなく国家公務員試験も受けずに、民間企業ならよくある「中途採用」を受けた立場のためか、AAAの主要な活動には立ち入らせてもらえていない。夫の談は、国際情勢の裏側を描くノンフィクション作品を残しており、その制作・出版に深く関わってきたのが萠子だ。

談が未完となった四作目で著述しようとしていたのは、前三作のように特定の他国からの侵略ではなく、地球外からの侵略についてであった。AAAの業務は多方面に渡るが、萠子に任されているのは、特定の他国からの脅威に関する調査ではなかった。いや、「侵略の脅威」に該当するとは信じがたい事案に対応することを求められる部署―「幼獣調査課」の統括をわずか採用一年後から任じられている。首都を失って間もない日本に従来になかった新組織が設立されたわけで、未熟さと混乱に満ちていた。

幼獣調査課が担当するのは、珍しい野生動物の幼獣が日本各地で次々と保護されている事案である。これらは何らかの研究施設で飼育されていた実験動物ではないかと疑われるが、常に手掛かりは残されておらず、警察組織が本格的に捜査しようとしても警察が動く法的根拠に欠けることはもちろん、AAAとの連携がないため、何もわかっていないのが実状だった。AAAの上層部では、これらの幼獣を地上に放置する行為自体が侵略行為に該当しうると見ており、何らかの病原体を散布する目的があるのではないかとも懸念しているが、いまのところ被害は出ていない。

AAAの上層部と言っても、AAAの歴史はあまりにも浅く、上級国家公務員試験をパスしたか、防衛大学校を優秀な成績で修了したエリートだけで構成されているはずだった。実地の経験を積んだベテランが存在しない。彼らと面談する機会が萠子に一切与えられていない。意思決定に人工知能(AI)の助けを借りているという噂もあった。警察など共通性の高い他の機関から人材を転用しようにも、震災後の立て直しでリソースが制約されており、所管の省庁も異なっていた。

たとえば、ショッピングモールのエスカレーターの裏側に乳母車に寝かしつけられたフタユビナマケモノの幼獣が見つかったりする。幼いナマケモノなど、初めて見る大多数の人間にとって正体不明だが、愛くるしい赤ん坊なので警戒心を抱かれることもない。その赤ん坊がヒトに有害な病原体を持っていたら、テロ攻撃が成立してしまうので、危惧するのは当然である。だが、今のところ、そういう被害は生じていない。

報道各社にも幼獣発見のニュースは伝えないようにAAAから圧力をかけている。新聞社やテレビ局は、首都圏の活動拠点に大きな被害を受けて旧態依然とした反権力派が力を失い、外患誘致に近い報道をしていた過去の自覚があるのかないのか、いまのところAAAには従順な態度を見せている。談が健在で自分と組んでいたなら、真っ先にAAAに反旗を翻すようなノンフィクション作品を上梓したことだろう、と萠子は皮肉な気持ちにほくそ笑む。

幼獣が保護される事案をAAA上層部が表沙汰にしたくないのは、病原体散布テロの恐れがあるのはもちろんのこと、幼獣の出所がまったくもって不明なままだからだと思われる。その捜査がまったく進んでいない。警察の支援も要請するべきだと思われるのだが、AAAは法務省ではなく国防省の管轄下にあり、連携を取りにくい事情がある。萠子もAAAの職員になった直後、民間企業上がりの自分の身分が今や国家公務員であることに驚いた。

保護された幼獣たちは、今のところ、最終的に動物園に預けられることがほとんどだ。だが、まだ赤ん坊であことが多いため、飼育が難しい。動物園に預けられたイヌネコ以外の哺乳類の幼獣は、ほとんどの場合、成獣になれずに死んでいる。意外と保護施設に送られた幼獣の方が成長できている。犬猫が親代わりになるからだ。実は、種の異なる動物同士が親子や兄弟のように密接に暮らしていることを伝える情報や映像にも、萠子は目を光らせていなければならなかった。これらも外患の恐れがあるとAAA上層部は警戒していた。

二月に入ってからも同じペースで幼獣が保護されている。萠子は毎日定時に帰宅できる仕事ではないため、家政婦の花に舞を任せている。舞も今年から小学生だ。小学校に上がる記念にペットを飼いたいと言い出した。幼獣関連の捜査でコンタクトができた保護施設があるので、相談してみようと思った。「来週の週末、保護施設に猫ちゃんを見に行きましょう」と舞に告げると、舞が大喜びする。ペットショップで血統書付きの猫や犬を買ってもよいのだが、保護施設との付き合いを深めておいた方がよさそうな気がする。

02★

AAA内部では、たとえば、犬がヤマネコの赤ん坊の乳母代わりになっている動画、本来自然界では捕食者と被食者の関係にしかない豹とレイヨウ(アンテロープ)が兄弟のように仲良く暮らしている様子を撮影したものや、互いに何の関係も関心もないカバとゾウガメのような動物が友情をはぐくんでいる映像などを「有害動画」と目していた。しかし、AAA捜査官には、そのような動画の配信を停止させる権限がない。動画の投稿者を特定し、そのような動画が何らかの活動のプロパガンダになっていないかを監視することぐらいしかできない。

ただ、こういった動画の投稿者に思想的な共通点があることは徐々に明らかになってきており、萠子が報告書にまとめている。動物同士の愛情や友情は、人間が考えている以上に強力で種の違いを超えている。だが捕食者が被食者と愛情で結ばれるのは不自然過ぎないか。薬物や電気信号などで人為的に操作されているのではないか。「幼獣調査課」を率いている萠子は、そのへんの仕組みの有無にも目を光らさねばならなかった。とはいえ、幼獣調査課の捜査官たちは、幼獣がどこから誰の手によって各地に放置されているかを調べることに日々追われていた。

さて、ここに来て萠子が私生活で味わうことになった苦悩は、自分の親族が麻薬使用者であることを思いがけず見出した麻薬捜査官の苦悩に例えることができるかもしれない。萠子は、舞の小学校入学時期になっても日々の捜査業務に忙殺され、舞とともに子猫を引き取りに保護施設を訪れるという約束を果たせないでいた。そこで、家政婦の花に代役を頼んだのだが、「子猫」を引き取りに行った翌日、花が職場の萠子に電話をかけてきて奇妙なことを伝えた。「子猫を引き取るという話だったんですが、舞ちゃんが一目ぼれした子は猫ではなく象でした」

昨夜はケージの中を覗く暇もなく就寝したので、まったく気づかなかった。そもそも猫を入れるケージに入る子象など存在するのか? 花は続ける。「猫に母乳をもらって育っていたようなんですが、保護施設の人が『これからは里親宅でミルクを与えても大丈夫だと思います』と言ってました。ただ、猫に育てられたせいか、普通の象よりはるかに小柄だとも言っていました」

「そんな馬鹿な話があるかしら。生まれたての象の赤ちゃんでも五十キロや百キロは体重があるはずよ」と萠子が目くじらを立てても、花は「そうなの?」とぼんやり答えるだけで、まったく緊迫感がない様子。まさに幼獣放置を捜査しているプロフェッショナルの萠子は、事態の異常さに震撼させられていた。従来は、地球上に普通に生息している動物の幼獣が放置されていたのだが、今回は新種の幼獣なのだ。

その日、萠子は帰宅前に問題の保護施設「ネオネビュラ」を天王寺区に訪れて話を訊くことにした。施設名が少し変わっているなと思ったが、「新しい星雲」という意味なので気にしたことはなかった。談が昔のようにそばにいたら、名前からして怪しいと指摘されたかもしれないが…。

萠子は、昨年、幼獣調査課が設立され、その初代課長に任命された少し後に、NPOネオネビュラの青木紀子理事と最初にコンタクトを取った。名刺を渡して国立機関AAAの職員の古市萠子だと名乗ると、「環境省の所管にあるんですよね?」と訊かれた。動物保護施設や愛護団体は環境省に届け出ているから、そう思ったのだろう。「いえ、国防省に所管されているんです」と告げると、青木理事はびっくりした様子だった。それからどの保護施設に行っても同じような反応が見られた。

そりゃ無理もない。可愛いイヌネコが国防上のキーを握るとは普通は想像もできない。「近年、イヌネコ以外の野生動物の幼獣が各地で保護されるケースが増えていまして、病原体散布などのテロが企てられている可能性を否定できないため、国防省としても対策を講じているわけなんです」などと説明すると、イヌネコに関しては従来どおり保護して里親に出してもいいんですよね? と確認してくる。野生動物の幼獣が各地に放置されている話はAAAが圧力をかけているため、ほとんど報道されていなかったが、保護施設の人たちは現実に、イヌネコ以外の幼獣も保護する例が増えてきているから、そこに疑問を挟むことはなかった。

ネオネビュラの事務局に到着すると、青木理事が待ち構えていた。「象の赤ちゃんをご覧になりましたよね?」と訊かれた。「いえ、仕事が忙しくて家政婦さんに任せっきりなので、まだ見てないんです。ですが、猫用ケージに収まる大きさの子象なんかいますか? ありえない話だと思うんですが…」

「ありえないと言われても、現実にそういう子象を保護猫が母乳で育てていたんです。獣医さんも、もう里親に出しても大丈夫と言っていましたし」と、大ボケな話を続ける理事。

大事なのは、子象の出所である。「子象を保護するに至った状況を教えてください。まず、誰が、いつ、どこで子象をを保護したのか?」

「滋賀県の林道工事現場で、工事作業員の方たちに先月保護されました。工事監督の氏名まで控えてはいないんです。工事を請け負っていた建設会社の代表者名はお届けいただいたんですが、監督のお名前は調べないとわかりませんね」と青木理事が答えるので、萠子は林道の名称・所在地、建設会社名と連絡先だけ問いただす。明日にでも連絡を取るつもりだった。

「お家に帰られたら、子象ちゃんを見てあげてください。手に乗る小ささなので、うちのスタッフはみな『手乗り象』と呼んで可愛がってましたよ」と相変わらずボケたことを言い続ける。「だから、そんな小さい象なんか地球上に存在しないし、古生物にもいなかったわ。あなた方は動物保護の専門家じゃないの?」

青木理事は、まあ!と驚いた様子。「専門家ですよ。今回も何一つ間違った対応はしていません。普通はイヌネコしか扱っていないところに象が来たのが例外だったとしてもですよ、どのような動物であろうと、健康に成長できるように最善の対応をするのが私たちの仕事です」

もう話にならない―と萠子は思った。イヌネコ以外の幼獣が各地で発見されていることについて何の説明もしていないのは自分たちの対応の弱みだと思うけれども、数百グラムの子像なんて常識では存在するはずがないのだから、その異常さに向き合ってほしい。萠子はとりあえず、舞と子像が待つ家へ帰ろうと思った。自分の部署、幼獣調査課のスタッフには本件の報告を当面やめておくつもりだった。

家に帰ると、まだ家政婦の花がいて、夕食を作ってくれていた。「ママ、お帰り! 赤ちゃん象の名前はマーモに決めたよ。私たちが晩ご飯を食べたらマーモにミルクをあげるね」

「まだ赤ちゃん象に会ってないの。ちょっと覗いてもいいかしら」と声をかけて萠子はケージの中に視線を落とす。全身が猫のような毛で覆われている。鼻が長くなければサイズ的にも子猫と間違えそうだ。成獣の象の鳴き声と言えばラッパのような音色だが、この子象はおもちゃのラッパのような声で小さく鳴く。小さな声で鳴いて萠子に反応している。

萠子は内心大きく動揺している。動物のことにそんなに詳しいわけではないが、こんなに小さな象が本当に実在するととは驚愕の事実だ。しかも長毛種の猫のような体毛…。舞が萠子の想念を先取りするかのように言う。「この子、マンモスの赤ちゃんなのよ。だから名前はマーモ!」

マーモはケージの中で被せられたタオル地の布をかき分けて立ち上がり、先端近くに体毛が密生した尻尾を振り回して、またおもちゃのラッパのように鳴く。鼻を前方に立てて、大きな耳で空気をかき分ける。

萠子は舞が「お父さんが寝る前に聞かせてくれたマンモスのお話と同じよ」と話し出すのを聴いて、胸が切なく高鳴った。談はいつも舞にアドリブのお伽話を聞かせていた。いや、登場するキャラが固定されていたから、必ずしもアドリブではなかったかもしれない。ノンフィクション作家としての談を知る萠子からは意外な一面だった。お伽話の具体的内容を憶えてはいないが、「ティーラ」とか「宇宙鳥」といったキャラの名前は舞から間接的に聞かされていたので、まだ忘れていない。

花は、ゆで卵入りコロッケを作ってくれた。舞の好物だ。舞はご機嫌になって話す。「お父さんのお話だと、ティラノサウルスの赤ちゃんのティーラも登場するのよ。マーモはティーラと冒険の旅に出るんだけど、困ったときはいつも宇宙鳥が助けてくれるの」

子象の出現が舞の父に関する記憶を呼び覚ましたのだ。萠子は、心の底から涙が溢れそうになるのを我慢して、笑みいっぱいの表情で舞を見守った。談が行方不明になった事情を気遣う花は、炊事場を片付けながら、「食器は洗っておいてくださいね。象の赤ちゃんには、この哺乳瓶でミルクをあげてくださいね」と萠子に声をかけて帰り支度をする。

「花さん、お願いがあるの」と萠子が声をかける。「象の赤ちゃんのことは、誰にも言わないでくれますか?」

すると、花は胸を張って答える。「プロたる者、依頼人のプライバシーは漏らしませんわ。ご安心を」

「明日からも仕事が忙しそうなので、舞のことをよろしくお願いしますね、花さん」と、花を信頼しきった萠子。

談は左のうなじのあたりに薄い色の痣があった。その痣から数センチの空中に浮きあがって見える虹色の図形がふとしたタイミングで目に入ることがあった。

談が震災直前の関東に旅立ったニか月前のことを萠子は思い出す。舞と二人でドライブに出かけた談が予定を大幅に超えても帰宅しないことがあった。遅いので心配して携帯に電話をかけても応答がない。

結局午前一時過ぎに二人で帰宅したのだが、灯りが消えた廊下を歩く談の左のうなじから、虹色の図形が鮮やかに浮かび上がって見えた。その数日後、舞の首元に小さな痣があるのに気付いた。舞って何か大病を患っていたような気がする。

夫婦でよく話し合い、入院させる予定になっていた気がする。だが、医師から渡された検査結果や入院案内などの資料がすべて消えていた。だから、自分が白昼夢でも見ていたのだろう、と忘れ去ることにした。関東で大震災が起き、談が消息を絶った夜、舞の痣が談と同様に虹色の図形を浮かび上がらせるのを数秒の間、見たように記憶している。

花が玄関のドアを閉めて去ると、萠子はいそいそと食器を片付け、マーモへ授乳する。子象は、凄い勢いでミルクを飲み干す。「お代わりが要るわ。もう一本飲むと思うわ、お母さん」と舞が萠子を促す。

マーモはどこまで成長するのだろう。我が家で飼いきれない大きさまで成長したらどうしよう? 萠子は突然不安を覚えた。舞は母のそんな不安を察したのか、「お父さんの話だと、マーモはレトリバーぐらいの大きさまで育つはずよ」と落ち着き払って言う。ただ、余計な話を付け加える。「舞を背負って空を飛べるようになるはずよ。ティーラは美亜ちゃんが育てるんだけど、ティーラも空を飛べるようになる。冒険旅行に行くんだ」

美亜ちゃんと言うのは、舞の幼馴染の女の子だ。昨年、遠くに引っ越してしまった。お父さんがミュージシャン、お母さんが合気道家である。

03★

我が家に子象が来た二日後、萠子は伊吹山の林道工事を請け負っていた建設会社を大阪都高槻市に訪問して話を聞くことにした。だが、保護されたのが科学的にはありえないサイズの象の幼獣であることはAAAに報告していない。

萠子が愛車を高槻市まで走らせると、その建設会社は市の外れにあり、自社ビルであろう社屋の裏に松林があった。まだ四月なのだが、もうセミが鳴いている。最初はハルゼミの鳴き声とわからず、町工場から聞こえてくる機械音かと思った。子象を保護した建設チームの監督大井氏が事務所内にいて萠子を待ち構えていた。

「もうハルゼミが鳴いているんです。子象の件は、この私、若いころはバックパッカーしてたんですが、タイやインドで象をよく見てきました」と大井氏が問わず語りに話しだす。「アジア象でも生まれた直後の赤ん坊は百キロぐらいあります。私たちが保護した子象は、ありえない小ささでしたよ。これから育てることになるんでしょう? 雌のゾウでよかった。雄のゾウは人間の思春期みたいに大変な時期があるんですよ。ところで、新種の象なんでしょうか? 専門家の意見はどうなんでしょう?」

萠子は、うろたえそうになる自分を取り繕って「まだ判断は出ていません」と心ここにない返答をする。すると、大井氏が窓の外の空を見上げながら、本気とも冗談とも取れない口調で言う。「実は、私も目撃者なんですが、震災前から、伊吹山上空でUFOが以前に増して頻繁に目撃されてるんです。子象も宇宙から来たのかもしれません」

「保護なさったときの状況をもう一度お聞きしたいんですが、林道の工事現場近くで不審な車両を見かけませんでしたか?」と問うと、今度は真顔になって言い放つ。「車両は見ていませんが、宇宙船かもしれない物体が飛行しているのを目撃しました。信じてもらえるとは思えませんが、子象を運んできたのはUFOだと思います」

もしかしたら大井氏の言うとおりかもしれないが、その線で調べを進めることはできない。何も得ることのない聴取だったと、あきらめに近い気持ちになったところに、応接室の内線電話が鳴る。大井氏が受話器を上げ、「今度は雛鳥が見つかった? 保護して施設に引き渡せばいい。何? 鶏のヒヨコに似てるが、異常に大きいだと…」

「小さすぎる子象かと思えば、今度は大きすぎるヒヨコが放置されていたとか。子象を保護したのと同じ林道です。古市さんも見に行きますか?」という大井氏の提案に乗じて、萠子も「雛鳥」が保護された現場に行くことになった。

建設会社の四駆に乗り換えて現場に向かう道中、大井氏がまたもや問わず語りに話し始める。「私は建設は専門外なんですが、大学では古生物学を専攻していました。古生物の世界では、近年になってから新発見が目白押しですが、私はバックパッカー生活を続けながらも、こうして林道建設に携わりながらも、古生物の新発見に目を光らせてきました。最近では、体高一メートル強のマンモスの化石も見つかっています。ニワトリのヒヨコと恐竜の幼獣はわりと似てるという話もありますね」と笑って見せる。

果たして林道工事現場で新たに保護されていたのは、体重が二キロ以上あるヒヨコだった。少し黄色味を帯びたビロード状の体毛に包まれた愛くるしいヒヨコだが、サイズが異常に大きい。頭部はニワトリよりフクロウを思わせるボリューム感だ。フクロウの雛と同じく頭部が重すぎて直立した姿勢では眠ることができない。このため、止まり木に掴まって眠ろうとはせず、ケージの底に敷かれた布の上でうつ伏せになり、顔面を横に向けて眠る。

全体像は愛くるしいのだが、頭部を注視するとクチバシは磯にいる石鯛のように、内側に細かく鋭利な歯を奢られていて、いささか凶暴に見える。

「なんの雛だと思いますか?」と作業員に訊かれても即答できない。雛と言うが、そもそも背中に翼が植わっていない。 大井氏が真顔で「鳥類じゃなくて獣脚類の幼獣ですね」と答える。「育ててみれば何の子供かわかるでしょう。今回もネオネビュラさんに送ればいいですよね、古市さん」

鳥類や爬虫類は、扱っていないのではないのかと萠子は思った。犬猫保護施設にとっては、成獣のイヌネコの雌が乳母役をしてくれることも重要な条件のはず。だいたい、この巨大ヒヨコは」何を食べて成長するのか? ただし、哺乳類でないことを現時点で確認できているわけではない。その旨を申し送ってネオネビュラに一時的にでも渡せばいいか…。無責任な対応かもしれないが、例外的な事象を相手にしているのでやむを得ない。

「今、ネオネビュラに電話を入れますわ」と萠子が連絡を率先して青木理事と話す。「AAAの古市です。子象と同じ現場で今度は、大きなヒヨコが保護されたんですが、預かっていただけますかね? ヒヨコに似ているだけで哺乳類かもしれないんです。まだ、どの種の動物かわかっていないので、ネオネビュラ様の担当獣医の方の判断を仰ぐべきですが…」

「あの子象にしても、まだ種は特定されていないんでしょ? 里親が見つかりそうな赤ん坊動物なら、私どもとしては収容することにやぶさかではありません」と心強い返答が得られた。なんだか適当な話だと思わないでもないが、世界が大きな変化を迎えているときは、フットワークの軽いリアクションが大切だ。

そう、萠子は世界が大きな変化を迎えていると実感していた。どこの何者が何のために手を引いているかはわからない。でも、とんでもないことが現に起きている。本当に、子象はマンモスの幼獣で、巨大ヒヨコは恐竜の幼獣かもしれない。失踪前の談が舞に語っていた物語は、一種の予言譚ではないのか。

だが、萠子はこの後、京都市上京区に所在するソフトウエア会社を訪問する予定になっている。だから、巨大ヒヨコをネオネビュラまで運ぶことができない。

「現場の連中がとりあえず巨大ヒヨコに牛乳を与えてみたところ、喜んで摂取しているし、下痢もしていません。哺乳瓶を当てがって大阪のネオネビュラまで運ぶことにしますわ。古市さんは、弊社までクルマで来られたんですね。私は、ヒヨコちゃんを乗せてネオネビュラまで行きます。おかまいなくどうぞ」と大井氏が親切に申し出る。

「さっきもお話ししましたが、子象を保護したときUFOを目撃しました。今回の二つの事例について、古生物学者崩れの立場から、仮説があります。地球外の知的生命体が遠い過去にタイムトラベルして古生物のサンプルを採取し、工事現場に放置したのだと思います」とまで自信満々で言い放った後、苦笑しながら付け加える。「何の目的かはまったく不明ですが…」

四駆の荷室に巨大ヒヨコを乗せて高槻に戻ろうとして、森を抜けると、大空が頭上に広がった。そして奇妙な物体が浮遊しているのが見える。「この前見たUFOと同じ、菓子箱型飛行物体です!」

まさに菓子箱のような市松模様の四角いUFOだった。地上を吹く風に空っぽの菓子箱が巻き上げられたかのように見えたが、実際は百メートル四方の大きさかもしれなかった。大井氏が四駆を一時停車させたが、物体はみるみる高度を上げて遠くへ去った。

「ミッション・コンプリート!」と大井氏が独り言を漏らす。確かに、異星人がサンプル配布のミッションを完了したのかもしれない。

京都のソフトウエア会社とアポを取ったのは、最近ネットで出回っている異種動物交流映像におけるデイープ・フェイクの使用を検出する技術について話を聞くためだ。しかし、たった今伊吹山上空に見えたのは、映像ではなく実像だ。実像にはフェイクのかけようがない。

04★

京都市四条河原町の「シービュー・ソフトウェア」には予定どおり、午後六時半に到着できた。この時刻でないと応対が難しいと言われたのだ。シービューは、フェイクの検出に特化した技術者集団だが、近年、ネットにはフェイク・イフェクトが氾濫ししており、同社にも依頼が殺到している。

シービュー社の受付でAAAの古市と名乗り、伊藤恵理子さんとアポがあるんですがと告げると、受付近くの応接スペースに通された。伊藤氏がまもなく現れ、「京都市内は混んでたでしょ?」と話し始める。「震災後、大阪も人が増えたでしょうけど、関東圏からビジネスマンが大挙して京都に移ってきたから京都の昼間(ちゅうかん)人口がほぼ倍増したらしいですわ。わが社も横浜からこちらへ移転してきました。私も関東から逃げ出してきた一人なんです。京都は憧れの地でしたからね。京都の方が、大阪よりベッドタウンの飽和度も低いし」

「で、古市様はフェイク動画の検出技術にご関心がある―と。フェイク動画を作成して流布するには、コストがペイするかどうかが重要なんです。おっしゃる動物の動画、どういうものか私にも見当は付いています。有名人物が登場するフェイクはお金になるので、コストをかけて作成する理由があるわけです。でも、豹が本来なら餌になるはずの鹿と仲良く暮らしている動画のコストをジャスティファイ、いえ正当化できるものかどうか大いに疑問です」と伊藤氏が話す。

外来語化していない英単語を口にして日本語を言い直すなんて、いかにも海外経験がありそうだし、海外歴をそれとなく匂わせる常套手段である。萠子はその点に反応して敬意を表しておくことにする。「以前、海外におられたんですよね?」

「アメリカの大学でAIを専攻した後、シリコンバレーで働いてましたわ」と伊藤氏が答えるのを聞いて、萠子は、彼女が本場で訓練を積んだ専門家であることを確認できた気がした。

「作成者がコストをペイできる理由があるなら、こちらもコストをかけて調査できると思います。そうでないなら、手を出さない方が無難でしょう」と伊藤氏は冷静に話す。

AAAという組織の未熟さが身にしみてわかる。調査を進める組織内モチベーションとリソースが不足していて、動物の交流動画を配布している者たちについて、詳しいことがほとんど不明なのだ。しかし、異種動物間の交流に関する動画をAAAの上層部は問題にしている。そもそも、萠子は「上層部」と直接面談したことが一度もなく、「上層部」のメンバー構成も知らない。その意思決定にAIが援用されているらしいことは知っているが…。

「ところで、AAA様は震災後に設立された国家機関の一つですよね。弊社はフェイク動画対策が専門というより、AIの応用を専門としている会社なんです。最近の企業や組織では、AIの導入が進んでいます。いや、AAA様のような新設された国家機関の多くはAIによる意思決定を推進していると言います。弊社もご協力できればいいのですがね…」

動画作成・配信者の共通性については、萠子が調査を進めてきた。キリスト教系の宗教との繋がりが濃いことは把握できている。だからと言って、コストをペイするだけの利得があるのだろうか? 布教活動の一環とは考えにくい。

萠子を惑わせる新たなキーワードとして「AI」が浮上した。動物の交流動画はフェイクでない可能性もある。フェイクでないならAIは使われてていない。だが、AIに支配されているかもしれない「上層部」は
交流動画を警戒している。

萠子は、心の中に浮かんできた疑問を伊藤氏にぶつけてみる。「AIって、人間が未経験のことには弱くないですか? AAAは、他国からの侵略行為を検出して対抗する組織なんですが、極端な話、人類には、地球外からの侵略に関する経験はないはずなので、AIは地球外からの侵略に対して使えませんよね?」

伊藤氏は美しい瞳をきらきら輝かせて返答する。「地球外からの侵略に関するデータが存在しないなら、AIは何の役にも立ちません」

萠子は話を脱線させてしまったことを軽く悔いた。本題に戻さないと…。「お分かりかと思いますが、私たちは営利目的の組織ではなく、法執行機関なんです。本来なら内製で対応すべきところですが、震災後のこの状況ではリソースに余裕がありません。異種動物の交流動画の真偽を判定するソフトウエアの作成と維持の料金を見積もっていただけませんか? AAAとして必要経費が妥当と判断できれば、ご依頼差し上げることになります」その判断を下すのは、自分ではなくAIの支配下にあるかもしれない「上層部」だが…。

伊藤氏とは、これから長い付き合いになるかもしれなかった。見積もりに必要な項目をシービュー側でまとめてメールでお送りしますと言うことだった。

萠子は駐車場で愛車に乗り込むと、観光客だけでなく勤労者が増えて横断歩道から混雑している京都の町中の道を名神高速入り口へと急いだ。かつての東京の混雑がそのまま京都に転移したかのようだ。名神高速は最近の拡張工事が功を奏しており、あまり混み合っていない。

萠子は大阪市内に戻ると、グランフロントの最北部にあるマンションに帰った。午後九時過ぎだった。ここは、国防省の職員宿舎である。舞が今月入学した小学校は公立の学校だ。大阪梅田の江戸時代から伝統のある商店街の入り口付近にあるが、過疎化によりいったん廃校になった小学校が震災後の大阪都都心部の人口増加に伴い復活した。こういう廃校からの復活は今や大阪では珍しい話ではない。

家に帰り着くと、まだ家政婦花の姿があった。舞は風呂上がりで、寝床に入ろうとしていたが、「お母さん、おかえりなさい。この子にミルクを飲ませたら寝るね」と反応する。まだマーモに授乳している最中だった。

象の赤ん坊は、すくすくと育っていた。だが、そんなに大きくなっていない。「舞、マーモは何キロになった?」と訊ねると「まだ二キロになってない」と答える。

とりあえず、子象のことはAAAに報告しておくべきだろうと考え直した。自宅(宿舎)から子象を引き上げるように上から言われたら困ると心配していたのだが、AAAは本来の侵略対策業務で忙殺されている上、幼獣調査課の上の指揮系統は「上層部」に直結している。自分から上は、顔の見えない上層部だけなのだ。それと、前に勤めていた出版社も廃業から復活したと聞いた。首都圏壊滅で日本が衰弱の極みに達した一方で、京阪神は好況に沸いている。自分は、組織からある意味野放しにされている幼獣調査課の課長として好きなように動いていいのではないかと開き直り始めていた。

「マーモちゃんの写真を撮るわね」と萠子が声をかけると、舞がカメラ目線で被写角内に加わる。萠子は出版社時代も今も職業柄さすがにSNSを使っていないから、舞が勘違いしたわけではなさそうだ。可愛い子象との写真が欲しいと思っただけだろう。報告用に舞が写っていない写真を後で撮影しようと思った。

萠子は大井氏に聞いた体高一メートルのマンモスの化石の話をスマホで調べてみると、体毛が見られないタイプのマンモスだとある。長毛種の猫を彷彿とさせるマーモとは一致しない。しかも、この調子だと成熟しても体高は五十センチほどだろうと思われる。行方不明になった談のお伽話だと、マンモスの赤ちゃんが成長してレトリバーぐらいの大きさになるという話だったようだが、レトリバーなら体高五十〜六十センチ、体重は重くて三十キロだから、それなら家で飼い続けることもできる。現生の象の場合、比較的小型のアジア象としても体高二メートル〜三メートル、体重三トン〜六トン。とても家では飼えない。万一そうなった場合に備えるには、AAAに詳しく報告しておく必要がある。

そう言えば、巨大ヒヨコはもうネオネビュラに届いたはずだ。電話を入れて、まだ帰宅していなかった青木理事と話す。「獣医さんが先ほど見てくださったんですが、ミルクを飲んでいても哺乳類じゃなさそうだとおっしゃってます。数日中に院の方で詳しく診てみますとのことです。うちとしては、おとなしくミルクを飲んでいるし健康そうだし、里親が見つかるまでお預かりしようと思っています」

もしかしたら、巨大ヒヨコは現代科学の常識を塗り替えるほどの大発見かもしれないと萠子は内心わくわくしている。「私も巨大ヒヨコの診察に立ち会ってもいいですか?」と萠子が尋ねる。かまいませんよとの返事だったので、三日後に獣医さんの院を訪れる約束をして電話を切る。

いや、この子象にしても大発見ではないのか。ただ、娘の舞が子象と理不尽に引き離される結果になるのは避けたい。科学的価値に目を向けず、舞の気持ちだけを尊重する方がむしろ「理不尽」かもしれないが、幼くして大好きな父を失った舞の境遇を考えると、子象が引き離される事態は何としても避けたい。巨大ヒヨコは、子象を守るための「スケープゴート」になるのではないか。

三日後の朝、舞が近所の児童と一緒に集団登校するより先に家を出た萠子は、AAA事務局がある夢洲へ向けて赤い愛車を西に走らせた。遷都なら二重行政も問題にならないかに見えたが、震災によるGDP下落への対策として強引に四区に改編された旧大阪市内の道路は相変わらず混みあっている。着信音が鳴り、カーナビと一体化された受話器に「鴻上」という名前が浮き上がる。談の友人の写真家からの電話だった。

「ずいぶん御無沙汰してます。今、千葉県に医療関係の撮影で来ているんですが、運転中に談にそっくりな男とニアミスしました。本当に談かどうかははっきりしません。軽い渋滞中に対向車線のクルマを運転していた男を『古市談!』と大声で呼び止めたんですが、無視されました。今回の震災では、医療機関自体が被災した大混乱の中、病院に運ばれたが記憶を無くしていて家族と再会できていない人も多いという話を聞いたもので、ご連絡しといた方がよいかと思った次第です」

そう、談はまだ生きているのかもしれない。大震災の本震発生時に談は確かに幕張の宿にいた。自ら捜索に向かいたいところだが、課長である自分が幼獣調査課から離れるわけにはいかない。鴻上が続ける。「千葉県医師会に依頼された撮影をしているところなんですが、記憶喪失のまま退院した患者で談に似た人物がいなかったかを調べてもらえることになりました。談の写真を何枚か渡しました。今のところ千葉県下の病院が調査対象になりますが、何かわかったら連絡しますね」

萠子の心が乱れていた。嬉しいのだが、予想外の展開に心が揺れている。大震災は五十万の人を家族から切り離し、残された人々の心を引き裂いた。直後の関西圏では、行き過ぎた一極集中が最悪の結果を招いたとする論調が強かったが、より良い暮らしのために一極に集中した人たち個々人を責めることはできない。一極集中を促進したか、そうでなくても野放しにした政策は責められて然るべきだろうが…。

AAA事務局に出勤した萠子は、午後二時からの獣医の診察に合わせて天王寺区のネオネビュラへ向かった。四月の物憂い昼下がりだ。夢洲から舞洲に架かる橋を昇り詰めると、大阪四区の空が霞んでいるのを俯瞰できる。

巨大ヒヨコは、確かに巨大だ。数日のうちにかなり成長したかもしれない。青木理事たちは中型犬の成犬用ケージに巨大ヒヨコを収納して獣医院に向かった。

獣医の井上氏は、巨大ヒヨコを見ると、「数日で一回り大きくなりましたね」と驚きを隠さない。「保護されるまで餌が足りなかったところに、ミルクをコンスタントに与えているからでしょう。鳥類でも、親が雛にミルクを与えることがあります。身近なハトなんかがそうでして、ピジョンンミルクと呼ばれています。素嚢乳(そのうにゅう)とも呼ばれますが、ハトの出すミルクは非常に栄養価が高い。でも哺乳類じゃないので乳首から授乳するのではなく、胃の方から吐き戻して雛に与えます」

井上獣医は巨大ヒヨコを優しくケージから取り出すと計量器に乗せた。「五百グラムぐらい増えましたね。フクロウに似ていなくもないですが、雛が二千五百グラムというのはありえない。成体でも一キロとかいう体重ですから。飛べる鳥は体重制限が厳しいんです。ダチョウのヒナなら十分ありえる体重ですが、形態的にダチョウではなさそう。

「計量器に乗せるときに生殖器をチェックしましたが、総排出腔しか見えないので哺乳類ではありません。形態的には鳥類以外に考えられないところですが、その先祖の可能性も完全には否定できない、というか否定したくないですね」と言って笑う。青木理事が怪訝な表情で訊く。「先祖って何ですか? 爬虫類じゃなくて?」

萠子は、むしろ「AAAの方がいらっしゃるので、あえて踏み込んだことを言いますが、恐竜のヒヨコかもしれません。この二年ほど、アメリカなど海外で恐竜の幼獣らしき生き物が見つかっているという報告が数件あり、獣医学会では知られているんですが、国外・国内を問わずメディアでは伝えられていませんね」という井上獣医の言葉に驚かされる。海外のメディアが口を閉ざしている以上、AAAから圧力をかけて揉み消しいるわけではない。

「恐竜ってことは、『獣脚類』とかですか?」萠子も負けじと踏み込む。井上獣医が恐竜のような笑みを浮かべて反応する。「よくご存じですね。獣脚類の代表があのティラノサウルスですね」

「恐竜だったら肉食ですよね。困るわ。子犬や子猫が食べられてしまうかもしれない」と青木理事がうろたえた様子を見せる。「肉食とは限りませんよ。草食恐竜もいます。でも肉食恐竜の場合、将来的に餌代が大変なことになる。個人の里親を探すより、動物園や水族館に当たった方がいいかもいいかもしれませんね」と井上獣医がフォローする。

「AAAの現在の方針としては、珍しい動物の幼獣が見付かった話は公にしたくないんです。少なくとも当面は口外しないようにお願いいたします。動物園が秘密裏に飼育してくれるのならいいんですが…」と萠子は言葉尻を濁らせる。

萠子は、幼獣調査課の人的リソースの貧弱さにも危機感を覚えている。この課は、課長の自分の下、四人の若者だけで構成されている。大卒後、国家公務員試験に合格したエリートたちだが、社会経験がない。大卒後すぐにAAAに採用された彼らは、こういう従来の常識を超えた業務には意外と対応できているのだが、異常な事態に接している一般人への対応に問題があった。AAAが有罪なら死刑になる外患誘致罪の適用を謳っているのは、庶民を黙らせる効き目に優れていたのかもしれない。とはいえ、幼獣がらみの事案に外患誘致罪が適用されるケースは想像もできない。

「ともあれ、遺伝子検査を実施しようと思います。AAAさんから費用を出していただくことが前提ですが…」と井上獣医が笑みを抑えながら言う。「ええ、もちろん負担します」と萠子は即答する。

「DNAが一致する現生動物が存在しないかもしれないんですが、その場合は恐竜の疑いがさらに強くなります」と井上獣医。「恐竜かどうかを確認する検査ではなく、あくまで現生動物の幼獣かどうかを確認する検査ですので、ご了承くださいね」

というわけで、巨大ヒヨコは依然として正体不明なままだ。推測では、恐竜の幼獣である可能性が高い。だが、恐竜のDNAはこの世にストックがないので照合ができない。子象のマーモを検査する方が答えが出やすいだろう。いずれマーモの遺伝子検査が必要になるかもしれない。だが、結果次第で舞がマーモと引き離されることになる。ここで、妙な考えが頭をもたげる。談にそっくりな人物が完全に記憶を失くしているとしたら、DNA検査による本人確認が必要になるだろう。

05★

談は、二年前、大震災が襲った夜半、翼竜に運ばれた。翼竜が貨物クレーンのように談の身体をピックアップして運んだ。そのとき、談は自分が翼竜に救われたと感じていない。クレーンのアームに引っかかったからホテルの二十階から落下せずに済んだと感じた一瞬があった。

しかし、彼が宿泊していた三十数階建てのホテルの建屋全体が南側に倒れたのだ。屋上に設置されていたクレーンなら南側に落下していたはずだ。クレーンは談に重力加速度を与えながら、数メートル浮上した。談は、巨大な翼から生み出された風力も感じた。ホテルのあらゆる構成部材が凄まじい轟音を発しながら六十メートル下の地上に崩れ落ち、膨大な砂埃を上げる中、談は翼がはためく音を聞いたと思う。

談は、ホテル付近の路上で倒れて意識を失くしているところを救助され、千葉市花見川区の総合病院へ運ばれた。総合病院の内部も内壁が崩れ、医療機器が横転するなど、被害を受けていたが、談が運び込まれた震災直後は患者数も少なく、まだ医療崩壊には至っていなかった。

そんな中、意識不明の談は集中治療室に搬入され、手厚い治療を受けた。だが、談の意識は別の場所にあった。病院ではなく、「侵略者」たちの施設に収容されていた。無数の翼竜が侵略者に飼われていて、関東一円から被災者を運んで来ていた。

侵略者の一人が談に音声を介さずに話しかけてきた。「今の地球では、重力が強すぎて古生代の翼竜は飛行できない。ゆえに、私たちが龍と呼んで飼いならしているこれらの翼竜は改造を施されている。―そう、君たちの表現を借りればサイボーグなのだ。

「私たち侵略者の存在に何らかの形で気づいている人間たちを可能な限り救い出すことにした。あなたは、かなり深いところで私たちの存在を悟っていて、著書にも著そうとしていた。だから、本震が襲う数分前に龍を寄こして救うことにした。私たちが救った人間たちには、私たちの存在を他の人間たちに直接知らしめてもらいたいとは考えていない。私たちのことを知らしめる行動は徹底的妨害を受けるだろう。『支配者』たちによって」

談は侵略者たちから、さまざまな秘密を聞かされた。支配者は、人類への支配を強化するために、侵略者のように恐竜やその他の古生物を甦らそうとしているが、そういった古生物を幼獣から成体へと育てるための唯一の方法を拒否している。それは「種を越えた愛」なのだ、と。支配者たちは「種を越えた愛」を認めるわけにいかない。認めれば「支配」が崩れるからだ。

談は、病院の医師たちには昏睡患者と見られていたが、実は上記のように意識が別の場所にあり、その現実の中で自己を自己として認識していた。その状態にあったとき、談は自分に愛しい妻子がいることを忘れてはいなかった。だがで治療を受けているうち、記憶がどんどん薄れていく。

あるとき、侵略者の一人がこう言っていた。「私たちは、あなたの命を危険から守った後、あなたを支配者に引き渡すことになります。あなたは怪我を負っていないので本来、治療の必要がありません。でも病院では治療の名の下、あなたの記憶が消されることでしょう。医師たちが悪意を持って記憶を消すのではありません。支配者のやり方は巧妙です。

「あなたが記憶を消された方が当面は安全かもしれない。『当面』というのは、私たち侵略者が支配者と雌雄を決するときまで、と言う意味になるかもしれませんが…。なお、私たちは好き好んで侵略者と自称しているわけではありません。支配者から見たら侵略者となるだけで、『時間旅行者』と名乗るのが正しいかもしれません。ただ、あなたたちが支配者に支配されている以上、論理的混乱を避けるために侵略者と暫定的に名乗っています。

「あなたの記憶を蘇らせるには、幼かった娘さんに話していたお伽話がキーになるでしょう。私たちにとって、古市談さん、あなたは特に重要な人物です。だから何としても、あなたの命を守る必要がありました。しばらくの間は、私たちがあなたと直接接触することはなくなりますが、お力を借りる日が必ず来ると思います」

侵略者の予言通り、「治療」が進むにつれて記憶がますます希薄になり、退院する前に、談は自分の家族構成も、自分の名前も、自宅への道順も、自宅の住所も電話番号も、自分の経歴も、自分がいったい誰なのかも、その他自分自身に関するあらゆる記憶をすべて忘れてしまった。

ただ、支配者と侵略者がこの世にいることは当然のように憶えていた。退院後は、侵略者と繋がりがありそうな職に就くことになり、支配者に軽い敵意を覚えていた。先日も路上で自分を呼び止めようとする男がいたような気がする。あの男も支配者の回し者だろうと警戒心を抱いている。あの男は、談の三十年来の友人なのだが、まったく記憶にない。

06★

むしろ、支配者の回し者と化しているのは、談の妻、萠子であった。震災後に新設された国家機関はいずれも支配者に掌握されていた。談は、萠子と舞の記憶を完全に失っているし、その事実を知る由がない。

さて、談の娘、舞はマンモスの幼獣を育てていた。談は舞が四歳のころに夜ごと語って聞かせたお伽話の中で、舞が赤ちゃんマンモス、マーモと出会うことを予言していた。舞が談のお伽話に倣ってマーモと名づけたマンモスの赤ん坊は、保護された直後の体重わずか二キロが一か月後に四キロになった程度だった。マンモスはおろか、現生種のゾウとしてもありえない小ささだった。

一方、巨大ヒヨコは保護施設ネオネビュラで、鶏肉などのエサも与えられながらゴールデンレトリバーの乳母に育てられ、保護後三週間で体重十キロに達していた。羽毛に覆われた体は鳥類に見えていたが、現生種のどの鳥にも似ていない。翼は備わっておらず、後脚と比べて不釣り合いに小さな一対の前脚が目立つ。それは獰猛な肉食恐竜の特徴に一致していたが、全身を覆うビロード様の羽毛と、インコ類のような人真似もできそうな鳴き声からは恐竜を連想しづらい。

ネオネビュラのスタッフたちは、巨大ヒヨコの処遇に困りかけていたが、ある日、父親らしき男性とともに施設を訪れた小学校低学年と思われる女の子が「あたしたちがヒヨコちゃんの里親になる」と言い出した。しかも、そんな幼い女の子が「この子は、ティラノサウルスの赤ちゃんよ。でも人間を襲わないわ」と明言するではないか。

珍奇または未知の幼獣を保護している話は公表を控えるようにAAAから通達されているため、幼獣の詳細を公表して里親を募れなかった施設側としては、その女の子のような申し出は実にありがたい。ただ、保護している幼獣が獰猛な肉食獣に成長する場合は里親やその同居人、さらには近隣住人に害が及ぶおそれがある。

その女の子から申し出があった翌日、旧首都圏からネオネビュラに電話があった。男性の声で「田村と申します。私どもは、米国の映画制作会社『ジュラピクチャーズ』の子会社なんですが、ヒヨコを探しています」と語り始める。震災の前からリアリスティックな恐竜などの古生物が登場する映画をネオネビュラの青木紀子理事も劇場で鑑賞したことがある。電話の主は「その映画を制作している会社です。ヒヨコを弊社の育成施設で育て上げて出演させたいんですよ。詳しいお話は直接お伺いしてお話したい」と言い出すではないか。

青木理事は、何の迷いもなくAAAの古市萠子にこの件を相談してみることにした。「小学生低学年の女の子と、ハリウッドの映画制作会社ですか」と萠子が驚いた声で答える。「本物の恐竜を出演させているのではないかという冗談もあったぐらいですからね。それと、象の赤ん坊は、うちの小学生が面倒見てますよ」

「その二人の里親候補は、ヒヨコちゃんが恐竜のヒヨコだと見てる点が一致していますね。実は、ヒヨコを最初に林道工事現場から保護した工事関係者の人も獣脚類の恐竜の幼獣だと決めつけていました。
「私も、恐竜の幼獣じゃないかと思っています。そうそう、井上獣医から検査結果の連絡はありましたか?」と萠子が尋ねると、青木理事は「まだ時間がかかるようです」と答える。

「このお二人の里親候補のどちらを選ぶべきかに関して古市さんにご相談したかったんです。米国企業の育成施設に渡すべきなのか、小学校低学年の女の子に託すべきなのか。普通は、個人より企業の方を選ぶべきでしょう。でもハリウッドの会社の方は個人的に怪しいものを感じます。先方の担当者が来週『上阪』するそうなので、古市さんも立ち会っていただけますか? AAAさんとしては、特に一般市民に情報を漏らさないかどうかを厳しく確認する必要があるでしょう?」

「じゃあ、女の子への回答は、映画制作会社との面談の後になりますね。映画制作会社が怪しいのは、ヒヨコの存在をどこで知ったかですよね」と萠子。「ヒヨコ情報のリークについては心当たりがなくもないです」―萠子の脳裏には大井の名が浮かんでいる。

萠子は幼獣調査課の部下、水木を自分のデスクに呼んだ。木君、ジュラピクチャーズって映画制作会社を知ってるかな? 日本支社があって、旧首都圏で活動しているみたいなんだけど、実態を調べてほしいの。『育成施設』で幼獣を育てて映画に出演させているという話もあるわ」

「育成って…。モンスター系ゲームみたいですね。ビーバーとかヤマアラシを幼獣から育成するって意味ですか?」水木も偏差値八十の大学を卒業した超エリートである。いわゆるオタク系の若者であり、特定分野の専門知識に通じているが、学力や業務に無関係な分野、興味のない分野のことは何も知らない。映画制作会社のことは詳しくなさそうだが、いざ必要な事項だと分かれば高い調査能力を発揮する。それに期待した。

水木に任務を与えたら、次は古生物学者崩れの大井氏に連絡を取る。電話に出た大井は「僕と違って古生物学者になれた友人も何人かいます。恐竜のヒヨコが保護されているかもしれないってことは、彼らとの話題に上がりましたよ」と話す。

「ジュラピクチャーズって会社はご存じ?」と萠子が訊くと、「『ジュラ』と名が付いているなら、古生物学者になりそこねたこの僕が知らないわけがないですよ」と笑いながら答える。「伊吹山で保護したヒヨコのことを彼らに話したのね?」と萠子が舌鋒鋭く追及する。

大井は「堪忍してください。有罪にしないでください」と反応するのだが、世の中に対して斜めに構えているような雰囲気を醸し出している彼が本気で怖がっているようには感じられない。「確かに、ジュラピクチャーズの人に教えました。あの制作会社の映画には、以前から本物の恐竜が出演していました。この前の相模大震災のように地球規模の大異変が起きると、現代から過去への風穴が空くそうで、過去から古生物を連れ出すこともできるとか」

ふと気づく。PCにメールの着信がある。開いてみると、まだ一度も面会したことのない落合管理官からのメッセージだ。ついに「上層部」から萠子に直接の連絡が来た。大井が訊き捨てならないことを口にしているので気にはなったが、萠子にししたら、それどころではなかった。幼獣をめぐる情勢が変化してきているので、直接面談したいとある。「異種動物間の交流を描く動画に関する調査も見直したい」と書かれている。

かつて五輪誘致に失敗した逃した大阪の膨大な負の遺産とみなされていた北港埋め立て地、夢洲に聳え立つ六十階建て国防省第二本部ビルの高層階行きエレベーターに乗り込むのは」、萠子にとって初めての体験だ。

このエレベーターで上層階に到着するには、事前に与えられた認証カードが必要だ。カードがないと指定した階に到着できないし、カードを持たない者が乗り込むとエレベーターが停止し、アラームが鳴り響く。エレベーター内部に自動小銃が仕掛けられていて、攻撃的行動を取る人物をリモートに銃撃することもできるらしい。このエレベーターは、人間を恐怖で支配する象徴のようにも見える。

上層部から発行された認証カードは、各職員のPCに接続されたプリンタから印刷できる。萠子に渡されるのは、一度しか使用できないワンタイム認証カードだ。偽造されたコードが印刷されているカードを使用することも「攻撃的行動」とみなされ、リモート銃撃の対象となりうるらしい。なお、認証カードは個々の職員に一意に紐付けられて発行され、対象となる職員の生体認証により有効化される。

07★

萠子は上層階行きエレベーターに乗り込むとボタンパネルの一番下にあるカードスロットに認証カードを挿入した。認証カードが受け付けられると、目的階のボタンが点灯する。ボタンが点灯していない状態でエレベーターに乗り続けていると、アラームが鳴動し、攻撃的行動と判断されればリモート銃撃を受けることになりかねない。乗り込む前に認証カードを挿入する構造になっていないのは、災害対策のためだと聞いたが、理屈がよくわからない。

今回、萠子は五十九階に呼び出されており、目的階のボタンが正しく点灯した。エレベーターが上昇するにつれて、カゴの外に大阪北港から四区にかけての壮大な風景が広がり、気圧の低下が若干感じられる。五十九階のフロアに降り立つと、中低層階よりはるかに上等そうな毛足の長いカーペットが床に敷かれている。認証カードには行先の部屋も指定されていて、その部屋へ向けて壁のLEDが点灯している。そのガイドに導かれて落合管理官のオフィスに到着する。

奥行きのあるデスクの向こうに、性別不明な痩せた人物が座っていた。「古市課長、私が落合です」と話すその声も性別不明である。性別不明だが、頭髪はなくスキンヘッドであることがわかる。スキンヘッドゆえ高齢なのかと思えば、身のこなしは軽く、中学生ぐらいに見えなくもない。異星人であってもおかしくない外見だが、異星人の侵略からも日本を守るのがAAAの使命であるなら上層部が異星人といううのはおかしくないか。

管理官は、「古市さん、早速ですが、報告を上げていない事案が一つありますね」と萠子の泣き所をいきなり突いてくる。萠子は、「え、あの、報告が遅れている件が確かに一つあります。動物種が特定され次第、詳細に報告するつもりでした」と苦し気な弁解を返す。だが、落合管理官の口調には何の感情の陰影もない。

「動物種を特定しづらい幼獣は、ほかにも見つかっているんじゃないですか? しかも、いずれも古生物の幼獣ではないかと疑われるケースでしょう?」と管理官が発するのを聞いて、萠子は激しい疑問を抱く。現場のことに直接触れない「管理官」がどこから情報を仕入れているのか? またもや大井氏がリークしている?

「海外の映像コンテンツ業界では、すでに滅亡しているはずの古生物をフィーチャーすることが多くなっています。現生動物間の種を越えた交流映像より、よほど収益になるようです。我が国の映像コンテンツ業界では、純然たる想像上の怪獣や怪物を登場させることが盛んだったわけですが、マンモスや恐竜やメガロドンを出し物にした方がリアリスティックな作品になります。本物の古生物を使っているからではないかと疑う向きもあるほどです」と管理者の抑揚のない説話は続く。

落合管理官の声に機械音が混じっているように聞こえる。自動車の吸排気音のようでもあり、工作機械の工具交換音のようでもあり、いや、最もそれに近いのはロボットのアクチュエータ作動音かもしれない。彼/彼女は本当に人間なのか?人工知能を搭載されたアンドロイドではないのか?

管理官が言葉を発すると、痩せこけた頬が規則的に脈打つ。プリントアウトされた資料の上に無造作に這わされている指が異常に細く、加速度を持たない線的な動きに収束していく。管理官の挙動からは、地球上の生き物が本来帯びている躍動感が除去されている。

「これからは、種を越えた交流映像を捜査するより、古生物が現代に蘇っているかもしれない事例を捜査する方が有効だと推察されるわけです」と落合管理官が付け加える。有効って何にとって有効という意味なのか? 萠子にはよくわからないが、マンモスや恐竜や巨大ザメがこの世に蘇っているケースに注力しろと促していることはわかる。まさにそれは最近自分が直面している問題だ。

「何者かが古生物を現代に蘇らせているはずです。これらの事例については、実行可能性の説明を現代科学に求めず、素直に調査・報告してください」

萠子は、ゾウの仲間と思われる動物の幼獣を里親として自宅に引き取ったことを落合管理官に話した。現生動物のゾウとしても、これまでに知られているマンモスなどの古生物としても考えられない小型軽量の幼獣であり、現在DNA検査が進められているが、種を特定できていないことを話した。

萠子の話を聞きながら落合管理官はときどき首筋を伸ばして、急カーブを曲がる車両が発するスキール音を思わせる小さな悲鳴混じりの声を交えて相槌を打つ。咳が出そうになるのをこらえているのか、と萠子はぼんやり思う。咳込んで止まらなくなったらポンコツの蒸気機関車みたいに大量の湯気を噴いて機能を停止するんじゃないかとさえ妄想して、笑いを吹き出しそうになった。だが、管理官の反応に怒りや咎めの色はまったく感じられない。

08★

ジュラピクチャーズに関する水木の調査はやはり迅速だった。「ハリウッドの本社は、二十年以上前から莫大な興行成績を達成している一連の恐竜映画に関わってます。同社が関与している最近の三作は、一部ゴシップ誌では、映画の中で語られているのと同じDNAからの復元技術により恐竜を復元し、それらを出演させているから、あそこまでリアルなのだと書いているほどです。

「専門家たちの総意としては、現在の技術によりDNAから恐竜を復元するにはまだ遠いと見ていますが、時間旅行で過去から持ち込まれた恐竜ではないかと唱えている超常現象オタクもいるようです。で、関東に展開しているジュラピクチャーズの日本支社なのですが、何やら不審な活動を行っているようです。多数の社員が自動車運転中の職務質問などの後、警察に身柄を確保されているようです。警察は、嫌疑を明らかにしていません。何か公表しにくい事情があるんでしょう。『不審な活動』が具体的に何を意味しているのか?『縦割り行政』の壁は厚いですね。国防省管轄のAAAとして独自に捜査すべき事案な気がします」

大井が口走っていた「現代から過去への風穴」の話が急に気になり始める。ジュラピクチャーズ日本支社が関東エリアで活動しているのは、「風穴」目当てではないのか。

「水木君、関東で震災により『過去への風穴』が空いたとかいう話を最近ある人から聞いたのよ。その人の名刺は、えーっとここにあるわ」と萠子が名刺を取り出して水木に渡す。「この人に連絡して、『風穴』のことを詳しく訊いてもらえないかしら。彼はジュラピクチャーズとも接触がある人物よ。ちょっと前に幼獣を保護した工事関係者でもあるのだけど」

萠子のデスクの前から立ち去ろうとする水木に「関東に出張に行ってもらうことになるかもしれないわ。管理官からも今後、幼獣調査課の活動方針を変えろと言われたばかりなのよ」と声をかけた。水木は、なぜか小さなガッツポーズをして喜びを表している。きっと活動先が大阪都や関西圏だけでつまらなかったのだろう。

萠子は、この後、天王寺区のネオネビュラを訪問して、青木理事、井上獣医にDNA検査の結果を聞く。夕刻からは、京都のシービュー社を再訪問して伊藤氏と面談する予定が入っている。ただし、本題はフェイク画像ではなく、AIに関する相談だ。

とりあえず水木を関東圏に派遣する。長期出張になるかもしれない。AAAの事務局が大阪都にしか置かれていないのも変な話だった。復旧の進んでいない地域に怪しい団体が点在している関東圏こそ、幼獣調査課以外に外患誘致に関わるAAA本来の捜査対象となる事案が頻発しているはずなのに、おかしな話だった。

09★

談は、「ネスト」と呼ばれる施設で働いている。東京府西部、多摩丘陵の斜面に口を開いたネストの周囲には、外部から隠蔽し、侵入を防止する柵が厳重に張り巡らされている。震災後に突如、口を開けた洞窟がそこにあることを知る者は、ジュラピクチャーズ日本支社の関係者だけだ。いや、実際には「現代から過去への風穴」として噂が密かに広まりつつある。

談は、記憶を失くして花見川区の総合病院から退院した日にジュラピクチャーズ(以下「ジュラ社」)の社員、田村にピックアップされた。病院の治療費や入院費は田村が支払ってくれた。自分の身元もわからない談は健康保険証も持ち合させていなかったため、かなり高額な支払いになったと思われる。

ネストにはコンベアが敷かれている。過去から現代への一方通行な搬送機であり、談にしろ、他の「ワーカー」にしろ、その始発点まで行った者は誰もいない。「歩いて行けば、一万年から数千万年前の過去に辿り着けるはずだが、たとえば、一万年の過去に行くには一万年歩く必要がある」などとジュラ社の社員たちが意味の分からないことを言うのが決まりだった。

このコンベアは、数日から数週間に一度、卵や幼獣を運んで来る。卵や幼獣を発見したら、丁寧に扱い、「幼獣室」へ搬入する。米国に本社を置くジュラ社が使っている「ネスト」の語源は、「アリの巣」(Ant Nest)である。談たちスタッフが「ワーカー」と呼ばれているのも、英語本来の勤労者という意味があるが、むしろ「働きアリ」(Worker Ants)からの連想だと米国人社員のブライアンに聞いた。

そう、現在、談は、相模大震災で関東の時空に穿たれた一種のワームホールであるアリの巣の中で働きアリとして勤務し、幼虫ならぬ幼獣を保護する役割を担っている。コンベアはメカニズムとしての成り立ちや故障したときの修理を考えると、額面どおりに過去に接続されているとは考えにくいのだが、ジュラ社の社員は真剣に技術的な説明を与えようとしない。

ジュラ社が収益を上げるには、これらの幼獣を成獣まで育成することが何より大切だ。幼獣たち(卵から孵化した幼獣を含む)が幼獣室で過ごすのは数日程度である。

ここ半年ほどで、哺乳類の家畜または愛玩動物の乳母に育てさせる方法が確立されてきた。鳥類の祖先である恐竜の場合でも、哺乳類の母乳で育つことがわかった。オオナマケモノやマンモスなどの哺乳類であれば、もっと話は単純だ。

ジュラ社は、その成り立ちが唯物論的な功利主義に基づく企業であるため、まだあまり重きを置いていないが、古生物幼獣の育成には家畜や愛玩動物が持つ種を越えた無差別な愛が欠かせない。ともかく、幼獣を成獣に育成する「スター育成プロセス」がジュラ社の命運を握っている。

さて、談は震災による生命の危機から侵略者たちによって救われたわけである。だが、ジュラ社が侵略者と一致しているわけではなく、ジュラ社は侵略者の影響下にある普通の人間の集団である。古生物の幼獣は、世界各地に空いた「ワームホール(タイムゲート)」を通じて現代へ運ばれている。マグニチュード9の巨大エネルギーで関東エリアにい生じた「ネスト」はおそらく世界最大規模のワームホールだが、日本には他のワームホールもある。

侵略者は、恐竜を始めとして、ジャイアントビーバー、マンモス、巨大サイなど身体サイズが巨大化した古生物が今の地球の重力では活動できないという知見に基づき、本来の大きさより小さくなるように成長させる「ネオテニー化(Neotenization)」技術を施した幼獣や卵を今の人類に届けている。

ジュラ社が関与した恐竜映画の最近の三作に登場した恐竜は、日本で震災が起きる前にアメリカ大陸各地のワームホールで保護された幼獣を育成したものだったが、いずれの個体も、ネオテニー化を経て愛がない環境で育てられたことことにより短命化しており、撮影を急ぐがゆえの高ストレスが短命さに輪をかける形で映画撮影後にまもなく死亡している。

実は、談の娘の舞が育てようとしているマンモスの幼獣マーモも、ネオネビュラで保護されているティラノサウルスの幼獣も「ネオテニー化」技術により小型化されている。ネオテニー化した幼獣を健康に成長させるには、愛を与えることがとても重要になる。

談は自分自身に関する記憶のほとんどすべてを失っているが、侵略者に聞かされた話はよく覚えている。便宜上「侵略者」と名乗っている彼らは、二十世紀以降の先進資本主義を牛耳ってきた勢力を「支配者」と呼んでいるが、支配者は愛を宗教や芸術の領域に押し込んでしまい、科学技術に活かそうとしていないと言う。ネオテニー化は、まさしく愛がなければ完結しない。とはいえ、侵略者がそのことに気づいたのは、さほど古いことではない。

談本来の気質からすると、愛の大切さを云々するのは、そこはかとなく気色が悪く、あまり信用できない気がする。だが、ジュラ社も本来はまさしく愛を分離した拝金主義者の集まりだったはずだが、今や愛情たっぷりな幼獣育成に真剣に取り組んでいる。「アリの巣の中の働きアリですら、幼虫に無償の愛を注いでいる。君たちワーカーも幼獣が愛くるしくてたまらないだろう。赤ん坊の愛くるしさを維持させるのがネオテニー化技術なんだから」とジュラ社のブライアンは力説している。

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「現存する動物のいずれともDNAが一致していません。一番近いのは鳥類、しかもニワトリなんですが…」と少し歯を覗かせながら井上獣医が言う。「恐竜類のDNAのストックがあれば大幅に一致するのでしょうね」

「ということは、ヒヨコちゃんは恐竜の子供である可能性が濃厚だということですね」と萠子が結論を急ぐ。すると、青木理事が動物愛護の立場から意見する。「映画制作会社に渡すと、育成した後、映画に出演させるのでしょ? 犬や猫でも映画に出てストレスが高いと寿命が縮むという話もありますから、ジュラピクチャーズにお渡しするのは気が進みませんわ」

「でも恐竜の子供を一般家庭で育てられるかどうか、大いに疑問ですね。困りましたねえ…」と萠子はもう降参気味である。「とりあえず、ジュラピクチャーズの担当者に相談してみるのがよいでしょね」と井上獣医。

さっそく青木理事がジュラ社の田村氏に電話をかけた。DNA検査の結果、恐竜の幼獣である可能性が最も高くなったことを告げた後、「実は、例のヒヨコを引き取りたいとお申し出の人がいまして、そちらに里親をお願いしようと考えています。その場合は一般家庭で育てることになります」と打ち明けた。

さらに続ける。「ジュラピクチャーズさんでは、恐竜の幼獣をお育てになった経験があるという意味に理解してもよろしいでしょうか? これは営業秘密に関わることかもしれませんし、私たちには守秘義務があると覚悟した上でお聞きするのですが、御社では恐竜を幼獣から育成して映画に出演させたことがあると理解してもかまわないでしょうか?」

「はい。その通りです。保護した動物を映画に出演させるわけですから、動物愛護の精神に反しているというお叱りを受けかねないことを承知しています。そこでこちらからの提案なのですが、幼獣が一般家庭で飼育できないほど成長した場合は当社で引き取らせていただくというお約束にしませんか? 

「このお約束は、当社法務部で正式に書面として作成いたします。この書面には『営業秘密』と『守秘義務』に関する条項も記載されることになりますので、ご了承ください。

「当社は米国企業なので、契約条件の文書化については何かとうるさいんですよ。お宅様にとって不利となりうるのは守秘義務違反があった場合だけですので、ご理解ください」

「了解いたしました」と青木理事は答える。今後のことを考えると、恐竜の幼獣の育成経験があるジュラ社との関係を確立しておくべきだと思った。

「一般家庭の方に里親になってもらうことには、メリットもあります。幼獣が育つには愛が必要ですから」と田村氏が付け加える。関東エリアのネストでなく他のワームホールから現れた幼獣であろうと、ネオテニー化されているのは間違いないだろうと田村氏は考えていた。ネオテニー化されていても、少なくとも二百キロぐらいの大きさまで成長するはずで、そうなると一般家庭での飼育は難しくなる。ゆえに、いずれはジュラ社の育成施設で引き取ることになる。彼はそこまで見通していた。

それと、幼獣をジュラ社の育成施設に収容する前にスタッフが自宅に連れ帰って一緒に生活した方が幼獣の健康状態が改善することも最近経験的にわかってきた。そりゃ、愛のない施設で育つより、幼いときはなおさら愛のある家庭で育つ方が健康になるだろう、と田村氏は率直に思っている。

11★

後日、萠子は再びネオネビュラを訪れた。ヒヨコちゃんの里親になると申し出た親子が自分と旧知の間柄であることを知って、ぜひ立ち会わねばならない思った。舞の幼馴染の美亜とそのお父さんの稲尾親子だ。稲尾さんは、ジャズミュージシャンである。アルトサキソフォン奏者であり、談と舞を連れてライブを聴きに行ったこともある。あのご主人なら、ヒヨコちゃんにジャズスタンダード曲を覚えさせかねない。

一足先に到着した萠子は、「ヒヨコちゃんをもう一度観察させてもらっていいかしら」と理事と獣医に断ってケージに近づく。ヒヨコが猛禽類のような高い声で鳴いて萠子の接近を受け入れる。ケージの隙間に指を這わせてみながら「大丈夫かしら」と井上獣医に問いかけると彼は鷹揚に顎をしゃくって萠子を促す。

体重十キロ以上まで育ったヒヨコは、トンビのようにひときわ甲高い声で鳴いた後、鋭い歯を持つ顎を軽く開いて萠子の中指を甘噛みしてくる。くちばしの内側で舌先を転がし、萠子の指の腹を舐めてくる。鳴き声も猛禽類よりインコに似たトーンに変わる。知能は高そうだ。

だが羽ばたきはしない。翼は備わっておらず、胸元から小さな一対の前脚が植わっている。全身が厚い羽毛に覆われているから恐竜と特定しづらいが、鋭い爪を奢られた小さな前脚はティラノサウルスやラプトルなどの獣脚類を特徴付けるものだ。

「この子は、オウムやインコのように人間の言葉も覚えそうです。すでにワンちゃんたちの鳴き声を真似しているように聞こえることがありますよ」と青木理事がニコニコして話す。

そこへ美亜ちゃんがやって来た。本日は、お父さんの誠一さんではなく、お母さんの咲子さんと一緒だった。二年ぶりの再会を祝してプライベートな近況報告を手短に済ませた。咲子さんは談とも面識があったが、談が震災時に千葉で行方不明になったことは知らせてあった。

青木理事がジュラ社との約束について親子に話し始める。「まず、最も重要なことを言います。このヒヨコちゃんは、鳥に似てますが、翼がなくて、体重はもう十キロを越しています。獣医さんにDNA検査をお願いしたのですが、恐竜の子供である可能性を否定できません。どこまで大きく成長するか予測できないのです」

咲子さんは、さすがに合気道師範だ。肝が据わっていて、それを聞いても狼狽しない。「恐竜だろうと、愛情をもって育てれば恐れることはないと思います」と悠々と答える。

「でも、たとえば、体長が三メートルを超えたりすると、ご家庭では飼育できないですね。現在はミルクを飲ませて、鶏肉も与えていますが、将来的に餌代がかかりすぎる可能性もあります。そこで、これ以上大きくなったら無理と言う状況になりましたら、映画制作会社の育成施設で預かってもらうというお約束で里親をお願いしようと考えています」

咲子さんは、うなずいて青木理事の提案を受け入れた。守秘義務契約を結ぶ必要があることを青木理事が説明しだすと、少し難しい表情を見せたものの最終的には納得していた。

萠子は、その後、咲子さんへメールを送った。「舞は、マンモスの赤ちゃんに一目ぼれしてしまって、今家で育てています。マンモスであることは、やはり世間の人に内緒ですがね。今度、どちらかの家で合流して、ゆっくりお話ししましょう」

萠子は、その日、いつもより早めに帰宅した。「今日、美亜ちゃんとお母さんに会ったのよ」と話すと、舞が嬉しそうな歓声を上げた。「美亜ちゃんは、元気だった?」

「元気そうだったよ。美亜ちゃん一家も保護動物の里親になることが決まったのよ」

舞は、「お父さんのお話だと、美亜ちゃんはティーラを飼うのよ。ティラノサウルスの赤ちゃんよ。でも、お父さんのお話だと、マーモもティーラもペットショップから連れてくることになってたんだけどな」と喋りながら、マーモをケージから出して抱きかかえ、モフモフの長毛を撫でた。マーモは、おもちゃのラッパような鳴き声を気持ちよさげに響かせる。

タイやインドでアジア象をよく見てきた大井氏が雄じゃなくて雌のゾウでよかったと話していた。萠子は、まだ詳しいことを調べていないが、雄のゾウは大変な時期があるらしい。雌なら舞が育てるのも安心だ。いや、とても手放しで安心などできない。

「ねえ、お母さん、美亜ちゃんと会えるといいな。マーモとティーラもきっとお互いに会いたがってるはずよ。あたしと美亜ちゃん、マーモとティーラは冒険旅行に行くんだから」と舞が意味不明なことを主張し始める。萠子は思わず尋ねる。「どこへ行くって言うの?」

「お父さんを探しに行くの」と舞が答えるのを聞いて、萠子は胸が締め付けられる思いがする。マーモが鼻先を空中に突き立てて、いつもの玩具のラッパではなくアルトサックスの低音に似た深い鳴き声を発する。その小さな体にそこまで反響する音響装置が組み込まれているとは想像もできない甘く深い音だ。萠子は舞を抱きしめる。

萠子は間接的にではあるが、談と潜在的にニアミスしている。ネオネビュラが契約を交わそうとしているジュラピクチャーズ日本支社で談が「ネスト・ワーカー」として雇用されている。萠子の部下の水木もまもなく関東圏に派遣され、ジュラ社とコンタクトする予定になっている。

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談は、記憶を失いながらも、喪失感に苛まれている。何を失ったかを思い出せないのだが、とても大切なものを失った悲しさが彼に責め苦を与え続ける。談が失ったのは記憶だけではなかった。自尊心も失くしていた。

過去のことを中途半端に思い出すのは避けたいと思っている。自分が物書きであったような淡い記憶が残っている。だが、詳細を鮮明に思い出すことはできないし、思い出そうとすると胸が引き裂かれる苦しさを覚える。自分自身についての記憶が戻らないまま自分の書いた本に巡り合いたくないので、書籍の情報を扱っているサイトは見ないようにしている。

震災後は行方不明者を探すサイトが多数立ち上げられたが、談のように生存している不明者はきわめて少数なので、あまり成果は上がっていない。一応、そういうサイトに目を通してみたが、自分を探している者(おそらく家族)はいそうになかった。談は、たぶん、家族も被災したのだろうと緩やかに決めつけていた。

ちなみに談は自分の本名さえ憶えていない。だから、古市談と自称していないし、職場では「花見龍」(はなみりゅう)と呼ばれている。これは、談が千葉市花見川区で救急搬送された被救助者であり、発見現場上空を龍が飛んでいるのを見たという目撃者が数名いたとから暫定的に付与された仮名である。

花を見る龍という夢想的な仮名が談を家族に引き合わせることになろうとは誰にも予想もできなかった。談を倒壊寸前のホテルから救い出したのは、プテラノドンである。体重が二十キロ未満ともともと軽量であるため、ネオテニー化は施されていないが、現在の地球の重力で飛行するのは難しいため、翼の構造に空力学的改造が加えられている。

談が記憶を失くす前に侵略者の一人が言った「サイボーグ」的改造とはこのことである。ただし、体重七十キロを超える談を運んで天高く舞い上がれるほどのパワーはないため、あくまで談を三十〜四十メートルの高さから地面に安全に降ろすミッションしか担えなかった。

この改造では、プテラノドンの翼に強力な補助翼が取り付けられる。補助翼は翼竜でも鳥でもなく昆虫の翼を模したものだが、ポリウレタン樹脂で作られている。この補助翼がプテラノドンの翼の揚力を数十パーセント増加させる。

侵略者たちは、時間旅行者とも名乗っている。テクノロジー面での彼らの強みは「時間旅行」に集約されている。一方、支配者たちは、被支配者たる人間に対して圧倒的に進歩したテクノロジーを有している。反重力駆動など被支配者に公開されていない技術が多数に上る。支配者には、地震の発生を制御する技術さえ備わっている。事実上、彼らに制御できないのは時間だけである。侵略者が支配者にとって脅威となるのは、侵略者が時間旅行の能力を有しているからだ。

支配者が有する反重力技術は、重力が増加した現代で恐竜たちを活動させるのにも応用できるはずだが、時間旅行能力を持たない支配者には古生物を復活させることができない。

談は支配者と侵略者の存在を洞察し、未完となった四作目の著書で次のように書いていた。「われわれ人類を守護している二つの存在がある。両者は互いに相容れない存在である。地球外からの侵略よりも、むしろこの二者の対立が人類の未来を脅かすのではないか」

この文の後に支配者と侵略者についての記述が続けられていたが、その内容はおおむね実態を表していた。談の内なる洞察だけでそこまで著述はできない。談は震災の数年前から侵略者、いや時間旅行者による接触を受けていた。舞に語ったお伽話にも、時間旅行者の影響が反映されている。

支配者が談を記憶喪失に導いたのは、談を侵略者の影響下にある人物の一人としてマークしていたからだ。支配者は特定の個人の命を奪うことをよしとしない。だから談を抹殺する意図はなく、単に記憶を消せばよかった。だが、こうして侵略者の影響下にある会社に雇用されている。記憶を取り戻すのは時間の問題だ。

たとえば、ジュラ社の米国人管理職チャーリー・ブライアンは花見龍の正体をほぼ見破っていた。だから、千葉県医師会から写真付きの問い合わせがあったときも該当しそうな人は雇っていないと談の存在を隠蔽した。医師会でもなんでも権力や権威を伴う人間の組織には、支配者の息がかかっていることをブライアンは知っている。

ブライアン自身、侵略者から積極的にコンタクトされており、明確にその影響下にあった。幼獣の発見現場近くでしばしばUFOが目撃されているが、ブライアンはUFOが幼獣と無関係だと主張することが多い。ブライアンは理由を述べないが、UFOは、多くの場合、支配者による反重力技術の応用だと知っている。

13★

萠子は、再び、夢洲に聳える国防省第二本部ビルの上層階へ上った。関東エリアへの人員派遣についての許可を落合管理官に仰ぐためだ。五月に入り気温が上昇しているせいか、管理官はもう夏服に着替えている。

その上腕部の細さは、マーモの小ささに匹敵するほど目を引く異様さだ。「関東圏には、治外法権的な危険エリアもあるようです。キ、キケン、危険。ブキ、武器……。幼獣調査課の職員は武器を必ず携行しなされ。特に復旧が遅れている地域や、所有者不明の建造物に人や車が出入りしている個所は危険や暴力がいっぱいなのよ♪」と管理官の口調が急におかしくなる。

管理官はPCに向けて何かを早口で話しかける。気にせず萠子が管理官に確認する。「派遣を許可していただけるのですね?」管理官が独り言をやめて「もちろんだとも」と返答するが、やはり口調が変だ。「ごめんなさい。今日は発声装置のチューニングが不調みたいなんです。私は発声装置がないと話ができない。古市さんは知らなかったでしょう」と管理官が意味不明な秘密を打ち明ける。さらに「私は宇宙人なのだ」と宣言する。

そのまま管理官の様子を観察していると、この間と同じく、声に悲鳴のような音素が交じっている。今回は口角から泡を吹いている。管理官室の四隅にある赤色灯が回転して点灯し、アラーム音が鳴り響く。「セキュリティ」の腕章をした屈強な職員三名がどこからか現れる。落合管理官を担架に乗せ、管理官の頭部にケーブルのようなものを接続してチェックを続ける。

彼らの一人がシャツの胸ポットから紙片を取り出し、反対側の手に携えていたスマートフォンぐらいの装置を自分の顔に向けて持つ。「切断周波数を発信するよ」と他の二人に声をかける。その職員が装置のボタンを押すと、落合管理官の胸元から顔面にかけて紫の閃光が走り、管理官が意識を失くしたように見えた。

「管理官が精神に異常をきたした模様です。あなたに対する管理官の言動はすべて記録されていますが、特に問題はないようなので、管理官が下した判断は有効となります。この管理官は武器や暴力に関する言葉がNGワードのようでして、以前にも同じような発作を起こしたことがあります」とセキュリティ要員が萠子に話す。「管理官はとりあえず修復ブースに収容しますが、今後も任務を続行するかどうかは現時点では不明です。追って、あなたに連絡します」

「管理官が異常な言動をしたと思いますが、たとえば管理官は宇宙人ではありませんので、誤解なきようお願いいたします」とセキュリティ要員が言い残して担架に乗った管理官を運び去る。

職員が取り出した紙片をその場に残して行ったのを目ざとく見つけた萠子は、紙片を京都に持って行こうと決めた。役に立ちそうだ。

「権力のある連中に限って、頭のどこかが狂っている」萠子の脳裏に大昔、父から聞いた言葉が蘇る。管理官は確かに狂っていた。狂った連中が管理しているこの組織、大丈夫なんだろうか?

父は権力から無縁な職人だった。ヘラブナという魚を釣るための浮きを鳥の羽から作って妻子を養っていた。父の浮きは、愛好家から熱狂的な人気を集めていたが、ある日、釣り師の溺死事故が起き、遺族が起こした民事裁判で父の浮きに欠陥があったとして賠償責任を負わされることになった。しかし、本来、波風があまり立たない池や湖で淡水魚のヘラブナを釣るために作られた浮きを荒波が立つ磯釣りで使用していたので、父は納得しなかった。

しかも、磯に浮かべた浮きで魚信を取りにくいことから、釣り師がよく見ようとして前のめりになった末に水中に転落したことの責任を負わされることになったのだから理不尽の極みであった。「裁判官たちは絶対に狂ってる」と父が悲痛な叫びを上げいてたのを萠子は鮮明に憶えている。

父は賠償金を何とか支払ったが体調を崩し、一年後に亡くなった。まだ高校生だった萠子は理不尽な判決を下して父を死へ追いやった裁判官を訴えたいと言い張ったが、それは無理な相談だった。だから萠子が権力者に対して画す溝の深さは筋金入りだ。

父の浮きで磯釣りをしていて溺死した釣り師もまた、元国税庁参事官だった。権力を笠に着た訴訟が罪なき父に対して起こされ、最悪な結末を招いた。

落合管理官が管理官であり続けている理由は、わからないでもなかった。若くて優秀な人材が欠乏しているのだ。震災後に急遽立ち上げられた国家機関の未来を他の業種の経験者に担わせることはできないのだろう。萠子は、落合管理官が防衛大学校を最優秀成績で卒業したと聞いている。幹部候補生として自衛隊に進もうにも「武器」や「暴力」というワードに異常に反応する心の問題を抱えている。国防省では、AAAの管理者という地位は落合氏に適職だと判断したのだろう。

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関東圏に派遣されるのは、水木と焼津の二名に決まった。二人とも昨年度の新卒者で、国家公務員試験に合格しているエリートだ。萠子は公務員試験など受けたこともないし、大学時代から前職の出版社でアルバイトをしていて、学業を優秀な成績で修了したとはいえない。二人は銃器を携行して関東圏に出張するが、射撃訓練は受けている。

二人がとびきり利口な若者だとしても、生存能力は未知数だ。ジュラピクチャーズと接触して実情を把握するほか、落合管理官が言っていた「治外法権」エリアで生存しているか、もしくは飼育されている幼獣がいないかどうかを調査することが彼らの任務となる。治外法権エリアでは、殺人が野放しになっているという噂もある。殺人鬼を検挙することは、AAAのミッションではない。だが、何らかの形で殺人鬼と遭遇・対峙することもありえる。結果的に正当防衛という形で殺人者を制圧することもありえる。縦割り行政の壁があるが、可能な限り警察や検察とも連携を取りたい。

大阪都から東京府方面への交通手段としては、まず航空機がある。新幹線は以前ほどの高速運行はまだ見送られているが、こだま号が昨年から復旧している。東名高速道路は一部復旧が遅れており、一般道を通過しなければならない箇所もあり、余震のたびに土砂崩れが起きる地点も少なくない。このため、自動車で東京府へ移動するには大阪港から高速フェリーを使うことが多くなっている。水木と焼津もAAA所有の四駆でフェリーに乗った。

AAAという政府機関から職員が二名派遣されることを知ったジュラ社のチャーリー・ブライアンは、花見龍を呼び付けて「悪いニュースがある」と切り出した。「君は記憶喪失だと聞いたが、支配者の存在は知っているね?」と訊かれて、花見龍は「知ってますが…。『時間旅行者』に聞かされています」と答える。

「私は、時間旅行者、つまり侵略者とも君が話をしているのを知っているよ。AAAは、特に支配者の強い影響下にある。私と君は逆に侵略者の強い影響下にあるわけだ。私は米国本社の人間であり皆の上司という立場上、AAAの追及をかわしやすいが、君は臨時雇用者である上、自分に関する記憶を失っているなど、連中に追及されると逃げられないおそれがある。そこで、AAAの職員が大阪に帰るまで、君は姿を消しているべきだと思う」とブライアンが言う。

ブライアンの提案に従い、花見龍こと談は、ネストから一時的に去ることとなった。「治外法権エリアをうろつくのは、やめておいた方がいいですよ」とブライアンに忠告されていたのだが、逆に興味をそそられた。

談の海外生活はアムステルダムでゴッホの絵画を鑑賞しながら平穏に始まったが、数年のうちにアフガニスタンに飛んででトラックの運転手の職を見つけた。その後、スーダンで傭兵として雇われたりした。危険な日常の中にいないと生きた気がしない心の闇を抱えていた。だから、治外法権エリアは、一切の過去を忘却した談にとっても、目もくらむような魅力を放っている。

東京府をはじめとする関東圏には、いくつもの治外法権エリアがあるが、談が興味を引かれたのは江東区の埋立地である。無数に立ち並ぶ倉庫や工場が津波による水害と火災を交互に受けて荒れ果てた後に、国籍も定かでない無法者たちが無数に流れ込んで来て、彼らの流儀により不衛生で暴力的な街を築き上げた。

ここでの集客資源は、酒、大麻・合成麻薬、売春、ギャンブル、そして見物人のギャンブルを兼ねた格闘技である。素人の一般人が地下でトレーニングを積んで、工場跡地に造られた「コロシアム」で命がけの勝負に身を投じる。勝負は、どちらかが意識または戦意を失うまで続けられる。敗者が死ぬことも珍しくない。一種のファイトクラブであり、震災で荒廃した風景と風土の中、古い劇画にちなんで「バイオレンスジャック」や「ケンシロウ」と名乗る強者もいた。

談は、弓道四段の腕前であり、アフリカでは、この特技のおかげで傭兵として採用されたのだが、実は人と争ったり闘ったりするのが苦手だった。見物だけにとどめている。治外法権エリアでは、人と人のファイト以外に、人と猛獣の決闘も人気コンテンツとなっていた。談は、これらの出し物も興味深く観察したが、猛獣の姿が異様だった。ライオンやクマなどのありふれた猛獣ではない。哺乳類ではない場合も多い。
小型でも敵に回したときに高い殺傷力を発揮するヴェロキラプトルを例外としてサイズもはるかに大きい。
体長六メートル以上だが動きが予想外に軽い大型ナマケモノ(メガテリウム)、体長二・五メートルの巨大ビーバー(カストロイデス)、体長三メートル超の巨大アルマジロ(グリプトドン)など、恐竜絶滅の約10万年前から約100万年後、地球の重力が今より弱かった時代に巨大化した哺乳類のほか、深い羽毛に包まれている各種肉食恐竜がいた。ローマ軍の剣闘士のようないでたちで剣と盾を構えた男が一人で猛獣と闘う。小さな人間が巨大な敵と闘う光景はスリル満点だ。だが、実はほとんどの場合、闘士の圧勝に終わる。巨大ナマケモノや巨大ビーバーは草食動物であるがゆえに攻撃力に欠けるとしても、俊敏で知能が高いと言われるヴェロキラプトルが弱いのはなぜか?

あるとき談がコロシアム戦を観戦していると、群衆の中で隣に立った砂漠民のような服装の男が衣類の一部に顔を隠したまま話しかけた。「ここにいるケモノたちはネオテニー化されているため普通より小ぶりだし、愛情が欠けた環境で育ったため、身体機能の成熟不全がある。だから弱い。人間同士で闘うより、ケモノを相手にした方が楽だよ。

「もっともケモノが愛情たっぷりに育てられた場合は、人間と闘ったりしようとしないし、本来の被食者である草食獣とさえ兄弟のように仲良く過ごしたりするんだがね」と付け加えると「砂漠民」は姿を消した。談は、かつて自分に接触してきた侵略者たちがいつも砂漠民(ベドウィン)のような衣類を身に着けていたことをぼんやり思い出した。

国籍不明な治外法権エリアの住民の多くは、米国に次いで政治統治者選びの混迷から内戦状態に陥って分断された中国の出身者だと思われる。江東区エリアには、特に、「四本足はテーブル以外何でも食する」と称される広東出身者が多い。談は、この一帯に多い広東料理店に吸い寄せられるように出入りしている。特に、タオという名の店は、隣接する闘技場で「グラディエーター」たちに狩られたジビエの肉が美味い。

特にラプトルの肉は、高級ブランド鶏の肉を思わせる旨さだ。談は、特に生の部分が残ったラプトルのタタキに目がない。大手酒造メーカーの蒸留所から震災後の混乱の中盗み出されたに違いないウイスキーを煽りながら、こんなものを美味そうに食べていたら誰かに叱られそうな気がする。それは小さな女の子だった気がする。

「おにいさん、ラプトルの食べ過ぎはおなか壊すよ」と隣のカウンター席にいた女の子に注意された。ヴェロキラプトルの脂肪は鹿の脂肪と同様、人間の消化器では消化しにくい。だから、特にタタキで食べるときは要注意だ。ノースリーブのチャイナドレスを着用したその女の子はまだ十代だと見えるが売春婦なのだろう。ここは治外法権だ。なんでもありなのだ。

世界の危険地帯を渡り歩いてきた談は、周りに溶け込むのは良いが周りに呑まれるのは愚かだと知っている。「おにいさん、何か飲ませてよ」と女の子がせがんでくる。談は、無言でうなずいた。未成年でないことを確認するのも無意味だ。ここは治外法権なのだから。

女の子は日本酒の大吟醸を注文した。これもまたどこかの造り酒屋から盗み出されたのであろう一升瓶からぐい飲みに注がれた酒を手にしながら彼女が言う。「あたし、日本生まれだよ。日本人じゃないけど、大吟醸酒には日本の心が通っていると思うの。あたしはサラというの。ここのバンドで歌っているわ。これを飲んだらステージに立つね」

サラは売春婦ではなく、広東料理店タオの常設ジャズバンドで歌っているシンガーだった。その日のサラの一曲目はTake Fiveだった。その変則五拍子が記憶喪失の談の臓腑にねじ込まれる。キーは高いのだが、サラの歌声は十代と思えない野太さだ。十代ではないかもしれない。「あの子」はまだ十代にも達していない。「あの子」とは、たぶん俺の娘だ。サラの歌声がトリガーになり、談がにわかに記憶の核心部を思い出す。

15★

萠子は、シービュー社の伊藤氏と話した内容を振り返る。落合管理官が異常な言動をした後、萠子は予定どおり河原町のシービュー社を訪れ、思い切ってAI専門家の伊藤氏に尋ねてみたのだ。「AIが人間の頭脳に搭載されている場合、誤作動することってありますか?」

伊藤氏は目を丸くして首を傾げる。「誤作動はいくらでも起こりえますが、AIを頭脳に搭載するという表現の定義によって、いろいろ差異があります」

萠子は、最初はそれが自分の管理官だと言わずに、彼/彼女が呈した異常な言動を説明した。すると、「特定のNGワードが入力されると、言動が異常になるというわけですね? 誤作動を起こしているのはAI自体ではなく、その人の頭脳の方かもしれません。AIと生体機能の融合は、まだ研究が進んでいない最先端領域です。AAA様は、予算が潤沢な国家機関でしょうから、かなり高度なAI技術を実践しておられるのでしょうね」

萠子は、容易に一つの結論を期待できるような相談ではないと覚悟していた。ただ、権力者たるAAA上層部が援用しているAIに現場の者が従属し続けるのは危険ではないかと感じていた。このリスキーなシステムをバイパスする手段をいざというときのために用意しておくべきでないか、と。

権力者を信じ切ることができない萠子は、そのためのヒントを伊藤氏から得たかったのだ。これによりシービュー社への支払いが発生するなら、依頼内容を偽って上に報告しようと思っていた。水木と焼津の二人の若く尊い命を無駄にするような判断をAIが下すのであれば、背信行為に当たるとしても阻止しなければならない。

萠子は伊藤氏に打ち明ける。「セキュリティ職員がその人、つまり管理官とAIの接続を切断しようとして、この紙にメモされている、たぶん周波数?を入力した後、これを置き忘れて去っていきました」伊藤氏が驚いた表情で萠子を見つめる。国家機関の内部機密を民間会社にリークするような話を始めたから驚いたのだ。萠子としては、このままAI頼みの狂った上官に振り回されているぐらいなら、現状を打破する行動が必要だと開き直っていた。

伊藤氏が落ち着いた口調で話す。「確かにこれは周波数ですね。AIと生体(この場合は管理官の脳)は何らかの方法で非接触接続されているのでしょう。この周波数の信号が入力されると、接続が切れるようになっているはずです」

萠子は、その後、自宅に戻り、舞とマーモの様子を観察した。「稲尾さんの家では、ティーラの世話が順調に進んでいるそうよ。どこまで大きくなるかわからないのが不安だったけど、今のところは、お家で育てることができそうだって…。マーモも、あまり大きくなってないわね」

萠子がマーモを腕に抱きかかえて、モフモフの長毛を撫で上げると、マーモが鼻先を高々と上げ、玩具のラッパのような声で嬉しそうに鳴く。こんなに小さいゾウやマンモスがいるのかしら? 何度も繰り返し抱く疑問だ。侵略者のネオテニー化技術のことを萠子が知るのは、まだ少し先のことだ。

室内の固定電話が鳴る。テレビと一体化されたモニター画面に発信者の姿が映し出される。美亜ちゃんだ。美亜は恐竜のヒヨコを抱きかかえている。黄色味を帯びた羽毛に包まれており、フクロウに似ているが、翼がなく、小さな一対の前脚がある。その前脚の片方を美亜の手に預けている。

「ティーラのこの可愛い手! ティラノサウルスの前脚よ。でも、この子は暴力を振るわないから大丈夫」と美亜が話しかけ、「ティーラをマーモと会わせに行ってもいいかしら?」と訊いてくる。ティーラが、物まねをしていないときのインコのような高く澄んだ声で鳴く。

美亜の父親、稲尾誠一は関東の治外法権エリアで飲食店を営んでいる華僑のラオ(老)氏からの誘いを断れずにいた。二十年前、誠一は新宿でライブ演奏を終えた後、酒を飲みすぎて前後不覚になっているときに、中国残留孤児系の半グレと喧嘩になり、相手を殺めてしまった。警察が捜査を開始し、誠一も重要参考人として聴取されたが、真犯人とされる華僑が逮捕され、彼は追及を免れた。真犯人として逮捕された男は、ラオ氏が手配した身代わりだった。しかも、逮捕の一か月後に拘置所で自殺している、

ラオ氏の誘いはあくまで紳士的なものだが、断り続ければ、その秘密が暴露されない保証はないだろう。治外法権エリアでのラオ氏の商売が落ち着いた今、その恩に報わないことで、妻子にどんな危害が及びうるかを考えるだけで、気が変になりそうだった。だから、五月半ばのある日、誠一は愛用の楽器を抱えて東京府へ旅立った。

誠一が演奏を頼まれていたのは、ラオ氏が治外法権エリアで経営している広東料理店タオであった。もともとラオ氏は誠一のアルトサックスの演奏を甚く気に入っていたことから、彼が殺人犯になるのをなんとしても阻止したかったらしい。いや、ラオ氏は後日、誠一に対し、「あなたは本当に殺していない。真犯人として出頭したのは私の部下だが、自分が被害者に刃物で致命傷を与えたのだと言い張っていた」と説明したが、誠一はその言葉を額面どおり受け取っていない。

誠一は、千葉で行方不明になった古市談とも旧知の関係だ。そして、まったくの偶然で談はタオに出入りしている。新幹線は震災後の復旧がまだ完了していないため、こだま号のみが運行されている。工事中区間などがあるため、新大阪〜東京間の行程に五時間半以上かかる。

誠一は八重洲口でタクシーに乗り込み、トランクにサックスとスーツケースを収納する。行先を告げると、運転手が不機嫌そうな表情で「危険手当として江東区内は五割増しになりますが、いいですか?」と訊く。誠一も不機嫌な表情のまま「いいですよ」と返答する。

「先週もタクシーが不審車両に当てられて、そのまま強盗に遭う事件があったばかりだ。五割の危険手当じゃ、いざというときにペイしないんだけどなあ」と運転手が不平を漏らす。「ま、新宿区の狭い治外法権エリアほど危険ではないけどね。歌舞伎町なんざ、流れ弾が飛び交うんだから、標準的な距離ベースの五割増しでは拒否するタクシーが多数派だと言うのは当然だよな」

大阪都はなんと平和なんだろう、と誠一は早くもホームシックを覚える。江東区の治外法権エリアに入ると、大阪の臨海工業地帯と同じような油と潮の入り混じった匂いが漂っている。十代のころ、誠一がサックスの練習に明け暮れた赤錆びた港湾地帯の匂いだ。江東区の治外法権エリアは、マンホールの周囲が隆起していたり、交通標識が異常に傾いていたりするなど、液状化の痕跡があちこちに見られる。

広東料理店タオは、高級キャバレーと一体化された豪華な店構えであり、上層階はホテルになっている。日本にはないタイプの店だが、とても治外法権エリアに立地しているように見えない。入口付近から壁などに、メニューの一部だろうか、ときどき「盗龍」の文字(繁体字)が目立つ。これは、店に隣接したカジノエリアで人間との闘いに敗れて食用となるラプトル(ヴェロキラプトル)を指していたが、この時点では、東京で恐竜が食用に供されていることを誠一はまだ知らない。

16★

水木と焼津は、関東圏への出張に当たって、ダークウェブを含めたネットを探索し、幼獣と治外法権エリアに関する情報を収集した。フェリーが到着する有明も江東区に属しているが、江東区の広いエリアが治外法権となっている。そして、江東区の治外法権エリアには正体が不明なケモノが生息しているという情報がある。

「グラディエーター」みたいな剣闘士と正体不明な猛獣が闘う見世物が行われており、見物人たちが多額の現金を賭けているという報告が見られる。しかも、猛獣の中には、小型の恐竜としか思えない動物さえいる、と。

ゆえに、水木たちは江東区の治外法権エリアに潜入することを予定に加えたが、まず最初に東京西部の多摩丘陵にあるジュラ社の施設を訪問する予定が組まれていた。

有明港で東京に上陸した水木と焼津は江東区の治外法権エリアを後回しにして、西の多摩丘陵へ向かった。中央道はまだ復旧していない。甲州街道経由で町田市に向かった。

東京府西部から神奈川県にかけて拡がる多摩丘陵は、大震災を引き起こした相模トラフの申し子のような地殻構造である。今回の相模トラフ地震は、五十万人の死者・行方不明者を出したが、震源が東日本大震災よりはるかに被災地に近かったことを考えると、マグニチュード9と観測されたエネルギーが何に消費されたのか不明瞭だった。実は、その膨大なエネルギーのかなりの部分が多摩丘陵の地下にスパイラル状にねじ込まれて、ワームホールの必須材料であるエキゾチック物質を生成し、世界最大のワームホール群を形成させるプロセスに消費されていたのである。

丘陵地に穿たれたそれらのワームホール群のうち、ジュラ社が管理している「ネスト」は最大規模の一つだが、ほかにもワームホール(「風穴」)が存在し、華僑ラオ氏の組織が「猛獣」の供給源として手中に収めている。多摩丘陵から二十三区へ向かう国道で大型車両が事故直後に大爆発して荷室に積まれていた「家畜」が跡形もなく焼き尽くされる事故が発生しているが、ラオ氏の組織が「猛獣」を輸送していたのが真相だった。

多摩丘陵にあるジュラ社の「ネスト」にしろ、たとえ死傷者が出ても警察が立ち入ることはできず、実質的に治外法権であった。ジュラ社側としては、日本の縦割り行政をよく研究しており、法務省の所管でないAAAには特例的に接触を許す方針を採った模様だ。

通用門に到着した水木たちは、身体検査を受けた。短銃が見つかるが、職員たちは驚きもせず、「お預かりします」と有無を言わせぬ口調で言い渡す。水木たちの四駆は職員らによって奥の駐車場に移された。鍵は返却されず、駐車場所も知らされないのは、逃亡防止のためだろう。二人は、白いカーペットが敷かれた施設長室へ案内された。小柄な三十代半ばぐらいの白人男性が二人を出迎え、淀みない日本語で話し始める。

「所長のチャーリー・ブライアンです。大阪都から多摩丘陵まで遠いところ、お疲れ様でした。当施設『ネスト』に関する予備知識はもうお持ちですね。ネストでは、あらゆる種類の恐竜の幼獣が時を超えて現れているんですが、なぜかティラノサウルスだけが欠落しています。今回、関西のワームホールでティラノサウルスの幼獣らしきヒヨコが見つかったということで、AAA様にも間接的に連絡を取った次第です。恐竜映画には主役のティラノサウルスが不可欠ですからね」と白い歯を見せて笑う。

「アメリカ大陸のワームホールでは、ティラノサウルスも出現しています。過去の映画には、アメリカ生まれの彼らが出演しました。ただ、最近まで飼育方法が確立されていませんでした。幼獣たちは愛がないと健康に成長しないんです。ですから、今回、伊吹山で見つかったヒヨコちゃんは合気道師範の女性の娘さんに育ててもらい、餌やサイズの問題で飼いきれなくなったら当社で引き取らせていただくお約束にしました」

二人は、ヘルメットを着用した後、ネストの中を案内される。「ここがワームホールの中です。アリの巣(アント・ネスト)のように枝分かれしているのが、このワームホールの特徴です。それゆえ、私たちは『ネスト』と呼んでいます。鳥のヒヨコを思わせる恐竜の幼獣が見つかる『巣(ネスト』だとも言えますが、巨大ナマケモノ(メガテリウム)や巨大ビーバー(カストロイデス)、巨大サイ(エラスモテリウム)などの哺乳類の古生物の幼獣もよく出現しています」とブライアンの解説が続く。

「『出現』と言いましたが、幼獣たちはこのコンベアで遠い過去から搬送されて来ます。枝分かれしているネストのどの枝から搬送されてくるかによって生息していた地質時代が異なるようなのですが、まだはっきりとしていません。

「卵の状態で運ばれてくる子もいます。到着した卵や幼獣はアリの巣の中と同じように『幼獣室』に運ばれ、数日内に育成施設へ送られます。この『育成』に試行錯誤と苦労がつきまとってきました。当初は、清潔さを最重視した環境で幼獣たちを半自動的に育てる方法が採られてきたのですが、それだと成長しても非常に短命に終わる。恐竜映画に初期に出演した恐竜たちは撮影後はおろか、撮影中に死ぬことも多かった。

「もう一つ、ネストに限らず、アメリカや関東圏以外の日本各地・世界各地のワームホールに共通して言えることですが、幼獣は成長してもあまり大きくならないのです。だいたい最大でも化石から推定される体重の半分ぐらいまで―もっと小さいこともあります。

最初にも申し上げたとおり、幼獣たちを健康に育てるには人間や他の動物から幼獣に愛を注ぐことが欠かせません」

「本日は幼獣に会えませんか? そんなに頻繁に現れるわけじゃないんですよね?」と水木がブライアンに訊いてみる。

「数日から数週間に一回の周期ですね。そうそう、お耳に入れておこうと思いますが、多摩丘陵にはほかにもワームホールがあります。このあたりのワームホールで保護したヴェロキラプトルなどの幼獣を治外法権エリアへ運び出している残酷者たちがいるようです。成獣まで育成せずに人間と闘わせるのを見世物にしてお金儲けをしたり、闘いで死んだ恐竜を食用に供していたりするなど、動物愛護の精神のかけらもありません」とブライアンが話し続ける。

「われわれジュラピクチャーズは、愛をこめて幼獣を育て上げ、愛をこめて映画に出演させています。映画出演後の恐竜たちには、愛情たっぷりな環境で余生を過ごしてもらっています」

愛、愛と繰り替えすブライアンに対して虫唾が走りかねない胡散臭さを覚える水木であった。幼獣を愛情たっぷりに育てることに異論はないが、映画に出演させているのは、見世物で金を儲けている残酷者たちと変わらない。それと、恐竜を食用にしているという話は、健啖家の水木を魔力的に惹きつけてしまう。江東区の治外法権エリアに行けば、恐竜の肉にありつけるわけだ。

ヴェロキラプトルは七千万年前の過去からワームホールを通じて現在に出現している。七千万年前の肉を食することで、人間はどう変わるのか? 七千万年もの時の経過を臓器で消化するとき、われわれ人間の体内でも時空がワープするのではないか?

学業優秀な水木だが、彼は妄想癖を抱えている。止まらない妄想が彼を課長の萠子が知れば仰天する行動へとけし掛けることになる。

水木は江東区の治外法権エリアに行きたくてたまらなかったが、幼獣が現れるまでネストで待機しなければならなかった。結局、次なる幼獣が出現するまで三週間もの時間を要した。しかも、コンベアに乗っていたのは、ゴリラの子供に似た霊長類の幼獣だった。

「ネストでは初めて見ました。アメリカ大陸のワームホールでなら何度かお目にかかったのですが、人類の祖先かもしれないギガントピテクスです。成長すると、身長は三メートルに達し、体重は五百キロを優に超えます。

「この子も、将来は映画スターの座が約束されています。以前は、幼獣の育成方法が確立されていなかったため、ギガントピテクスが撮影中に亡くなったことが二度ほどありまして、映画作品が未完に終わっています。撮影チームが大喜びするのは確実です」とブライアンが胸を張って言う。

「この子も『ネオテニー化』されているため、身長三メートルには達さないはず。このネオテニー化は、ワームホールから現れる幼獣たちに共通した現象なのですが、どの子も子供っぽいまま育ち、化石で知られているより体格が小さい傾向があります」と、コーカソイド系アメリカ人にしては、かなり小柄で実年齢より若く見えるブライアンが付け加える。

ギガントピテクスの幼獣を幼獣室に移してから、育成施設に移す仕事を本来なら担当する花見龍という人物が休暇中ということもあり、ブライアンは水木と焼津にこれらの作業を見学がてら手伝ってほしいと提案した。花見龍という奇妙な名前が気になった水木は、どういう漢字かをアメリカ人のブライアンに尋ねた。幼獣室では、ルーチン化したヘルスチェックに五日を要したが、その後は町田市内にある一般住宅に移された。そこが育成施設として利用されていて、飼育担当の日本人が数名働いている。

乳母役は、二頭のラブラドールレトリバーだ。大きな猿の赤ちゃんが犬のお母さんから母乳をもらっている光景は現実離れしていた。これがあんたの言う「愛」の姿なのか?とブライアンに突っ込みたくなったのは、水木だけでなく焼津も同じだった。

焼津は無口だが、危険なレベルまで好戦的な若者。学生時代から総合格闘技に打ち込んでおり、AAAに就職したのも、国防省所管であることに期待していたからだ。射撃練習に最も真面目に取り組んだのは焼津だ。

妄想型の水木と好戦型の焼津は、互いの息が合わないわけではないが、一緒に行動させると必ず世間との間でトラブルを起こす二人だった。血気盛んな若者たちを使ったことのない萠子には予想もできないことである。

二人が町田市を離れたのは、結局五週間後、梅雨真っ只中の七月初旬のことだった。

17★

梅田のグランフロント最北部にある萠子の住まい、国防省職員宿舎へ稲尾親子とティーラがやって来た。ティーラは体重が二十キロに達したという。ティーラが入ったケージは、お母さんの咲子が抱えてきた。さすがに合気道の師範、片手で軽々と運んでいる。

ティーラは、まだ巨大すぎるフクロウのヒヨコにしか見えなかった。だが鳴き声は、高く鋭く、なおかつインコやオウムのようで、ときどき物まねっぽく聞こえる一節がある。

「ティーラは正真正銘のティラノサウルスの赤ちゃんよ」と美亜が自慢する。舞も負けじと「マーモだって、正真正銘のマンモスの赤ちゃんよ」と返す。

「今日は梅雨の雨も上がって、久しぶりに晴れ間も出てるから、ベランダでゆっくりしましょうね」と言って萠子がお茶とおやつ用意して、皆をベランダへと促す。ベランダからは、大阪都を力強く貫いて流れる淀川の川面が見える。

ベランダのテーブルセットに腰を下ろした咲子が萠子に膝を寄せて「うちの旦那の誠一なんだけど、先々月から東京府に演奏に行ってるのよ」と切り出す。萠子は、自分の部下も関東に出張していることを思い出す。多摩丘陵のネストに入った後は電話連絡があった。だが、ここ数週間は日報が届くものの、電話連絡がない。

美亜と舞が久しぶりの対面で、しかも保護動物を交えての対面ということで、大いに盛り上がっているのを放置して、咲子が萠子に上半身を寄せて訊いてくる。「治外法権の店で演奏しているらしいのだけど…、大丈夫かなあ? 治外法権ってことは、困ったことがあっても警察は来てくれないってことよね?」

そのころ、萠子の部下、水木と焼津は、警察が寄り付かない治外法権エリアならではの任務を果たそうとしていた。いや、上から下された任務ではなく、捜査のためという弁解を枕詞にした愚行、二人の不安定なメンタリティから湧き出した向こう見ずな蛮行である。二人が投宿したのは、ラオ氏が経営するタオ飯店。一階に広東料理店タオと高級キャバレーRoyal Roadを擁する豪華ホテルである。隣には、これまたラオ氏が経営しているカジノ&コロシアムがある。

「寮も職場も夢洲の高層ビル――あそこに幽閉されて、本当に脳みそが腐りそうな二年間だったよ。闘士である自分を解放するために闘いたくてたまらないんだ。治外法権エリアを捜査するには、俺たちが実際に闘わねばならんだろ?」と頼み込む同期の焼津に水木が返す。「わかった」

本来なら犯罪になる行為に及んで治外法権の実態を検証することがAAAの任務になるはずもなく、論理が破綻している。

水木にとっても、そんな論理の破綻は気にならない。血の気の多い若者を組織が持て余した結果だ。「必ず勝てるんなら闘えばいい。相手を殺めてしまうかもしれないんだろ? 人を殺めても警察が動かない治外法権の実情を確かめることができるだろう。あ、他の任務に差し支えるような怪我を負ってはならないぞ」

焼津の次は俺の番だ、と水木は覚悟を決めていた。人と人の決闘と並行して、人と猛獣の死闘も開催されている。俺が殺すのは猛獣だ。猛獣相手の場合は刃物や鈍器の使用が認められている。だから、国防省のトレーニングプログラムで修練を積んだ自分に十二分に勝ち目があると見ていた。

水木は、焼津の初勝利をしかとその目に焼き付けた。コロシアムの外縁部で青銅製の銅鑼が叩かれ、決闘が開戦する。闘いの相手は、焼津より身長差で二十センチ、体重差で三十キロ大きい。パンチの一撃を浴びるだけで焼津は意識を失くすだろうし、マウンティングされれば惨めな敗北が決定し、その筋肉隆々の腕で肘や頸部を絞められても逃れられないだろう。

だが焼津は捕まらない。パンチやキックを寸前にかわし、タックルにも足を取られない。リズミカルに身体を逃がす。逃げながら相手の巨体の一瞬の隙を見逃さず、電光石火で転倒させると、丸太のような腕をその腕より細い自らの足に絡み取って、関節技を決める。

かくして開始後数分のうちに降参のタップを奪った。相手は骨折すらしていない。打撃戦なら倒れても闘士を失わない堅牢な相手を簡単に降参させてしまう関節技の芸術。

しかし、国防省の職員が勤務中にギャンブルの対象となる格闘技試合に出場するなど、通常許されることではない。当然、彼らは萠子に提出する日報に「ギャンブルの試合を見学した」としか記さないつもりだ。

コロシアムのスタッフは、焼津の鮮やかな速攻勝利を称賛し、第二戦をオファーしてくる。確かに対戦相手に大きな傷を負わせず勝利を決するタイプの闘士は、ギャンブル運営者にとって余計な手間がかからないので好ましい。だが、水木は「ちょっと考えさせてくださいよ」とスタッフを制した。このまま連戦続きになろうものなら、さすがに任務を大きく外れてしまう。

スタッフが「遠慮することないですよ。あなたはトレーナー?」とまで言った後、水木をかまうのをやめて焼津本人に迫る。「あなたは関節技の名手です。まだまだ勝てますよ。ギャンブル主催者側としても、打撃系で相手を食べちらかすような勝ち方をされるよりは、あなたみたいなスマートなタイプの方が助かるんですよね」云々。

スタッフの言葉をさえぎって、水木が宣言する。「トレーナーじゃない。私も闘士です。剣闘士と名乗るのが正しいかな? 私に対戦相手の野獣をマッチングしてくれませんか?」

焼津の鮮やかな勝利を目にした水木も、内なる妄想で予熱を保たれていた闘争心に火が付いてしまった。スタッフがオオカミウオの牙のように歯を剥いて笑う。「ちょうど、いいサイズのヴェロキラプトルが『入荷』したばかりですぜ」と魚河岸の兄さんみたいな口調で言う。

化石から推測されているヴェロキラプトルの体長は二メートル、体重は十五キロほど。魚河岸に並んでいるちょっと大型の魚類と同じほどの大きさだ。スタッフによると、現在入荷しているのは体長1.8メートル、体重十三キロで、震災後に関東の「風穴」で見つかっているヴェロキラプトルの中で最大級だと言う。体長の割に体重が少なく思えるのは、体長に長い尾部が含まれているためだ。

体重が二十キロないなんて、あまり強い相手ではなさそうに感じられるが、動作が恐ろしく俊敏で(ヴェロキはラテン語で「俊敏」の意)、鋭い牙が植わった顎を持ち、後脚に鋭利で殺傷力の高い鉤爪を備えている。人間が一対一で闘って無傷で勝てる相手ではない。剣闘士は通常、剣と盾でヴェロキラプトルに立ち向かう。

ヴェロキラプトルは、化石からの推定サイズが過小評価されていて、二メートル×十五キロがそもそもネオテニー化されたサイズである。映画に出演させるには、ちょうど手ごろなサイズだった。映画の中では、ネオテニー的な子供っぽさを帯びており、それが逆にキャラクターとしての魅力を増していた。だが、実際には四メートル×百キロ以上のサイズに達していた。

18★

相模トラフ大震災から二年、関東園ではまだまだ余震が続いている。江東区治外法権エリアのコロシアムでも、試合中に強い余震が来て試合が中止になることがある。勝負を続行すると、選手や猛獣より、観客が怪我をする恐れがあるからだ。

水木が剣闘士のいでたちを整えて、ヴェロキラプトルと今まさに対峙しようとしたそのときに揺れが襲った。だが、いつもとは違う長い横揺れだ。震源は関東ではなく、もっと遠い。北海道か、東北地方か、それとも西か。

震源は上町断層だ。当の震源地の上町台地は地盤が頑丈なため震度六弱で収まったものの、江戸時代以降の埋立地に由来する梅田界隈では震度七を記録した。十年近く前に梅田で震度六弱を経験していたが、あのときより、はるっかに影響は大きかった。

グランフロント最北部の職員宿舎のベランダにいた四人と二頭もあまりの激しい揺れに振り落とされてしまいそうになる。「宇宙鳥が助けに来てくれたわ」と舞が叫ぶ。宇宙鳥とは、談のお伽噺の中で、困ったときに現れる鳥のような生き物だ。空気がなくても飛べるから宇宙鳥なのだ、と談がいつも言っていた。

数羽の宇宙鳥が空中にいて、虹色の紐のようなもので四人と二頭をつなぎとめてくれる。舞の首元の痣が不思議な虹色の図形を鮮やかに浮かび上がらせている。宇宙鳥たちが全員を十四階の崩れかけたベランダから安全に地上に降ろしてくれた。

マーモもティーラも、もうケージに収まっていない。マーモは舞を、ティーラは美亜を背中に乗せている。二頭は、宇宙鳥の力を借りて、二人の六歳女児を背中に乗せたまま飛翔し始める。行先は東京府江東区のコロシアムだ。

「お父さんを探しに行ってくるわ。宇宙鳥が案内してくれるみたいだから、きっと会えるはずよ」と舞が萠子に大声で伝える。美亜も同じく上空に浮かびながら「私も、東京にいるお父さんに会うと思うわ」と声を張り上げる。

マーモが進撃ラッパのような声で鳴き、ティーラも狩りに出る猛禽類のような澄んだ高い声で鳴く。萠子と咲子は、予想外の展開に言葉さえ出ない。私たちはベランダから落ちて死んでしまったのかしら…とさえ思う。

突如として友達と一緒に冒険旅行へ旅立ってしまった六歳の子供たちにしたら、震災に遭った大阪の状況を気にしている暇などなかった。

宇宙鳥は、実際には空を飛んでいないし、皆を大気中で運んでいない。舞と美亜は、空を飛んでいる気がせず、風を感じず、下界の景色も見ていない。実際、二人は幼獣の背中に乗って、母親たちの姿を見下ろしていない。突然の旅立ちに切羽詰まった気持ちに駆られ、白い風景の中やみくもに別れの言葉を叫んでいただけなのだ。宇宙鳥が二人と二頭のいる空間を切り取って、亜空間の中を通じて運んでいるからだ。亜空間で迷子にならない限り、最も安全な移動方法である。

しかも、亜空間内を移動することは時空をワープしているに等しいため、移動が一瞬にして完結する。二人の女児は旅に出る高揚感を味わったが、その旅が瞬時に終わった。

19★

舞と美亜の一行が移動する速度は、地震のS波が大阪から東京に到着するより速かった。だから横揺れがコロシアムに到達するより先に一行が到着した。無意識に宇宙鳥を操っていた舞は、移動先を江東区のコロシアムと設定していた。このため、一行はこれから闘おうとしていた水木とヴェロキラプトルのちょうど真ん中に舞い降りることになった。

水木と立会人が一行に気づいて驚きの声を上げかけたが、すぐに強い横揺れが襲う。見物人も乱入者を一瞬目にするが、大震災からまだ二年でトラウマを払拭できていないところに突然の横揺れが来たものだから、恐怖が先に立つ。

六歳の女児たちは自分たちが出くわした光景をまったく説明できない。マーモとティーラも、幼さでは幼女たちに引けを取らない。理性的な判断ができるのは、上空にいる四羽の宇宙鳥だけであった。

宇宙鳥は亜空間飛行ではなく、空中飛行で二人と二頭をコロシアムの上空に引き上げた。そして、舞と美亜は屋根がなく大空に開放されたコロシアムを俯瞰する。

舞の父、談はコロシアムにもタオ飯店にもいなかった。震災時に周囲で発生した火災の影響で閉鎖中のスカイツリーの中にいた。侵略者に連れ去られてそこにいた。砂漠民のような衣類をまとった数名が談を取り囲んでいた。「私たちのテクノロジーでも、支配者のテクノロジーでもない。でも、あなたが操っているように見える」

侵略者は、宇宙鳥のことを談に訊いていた。「私は、宇宙鳥を操ってなんかいませんよ。彼らのことをよく知っている気がするけど…」と談は仕方なしに答える。侵略者たちが、目の前にある大型パネルに宇宙鳥と二頭の幼獣と二人の幼女の姿を映し出す。

そこに映っているのは、四羽の宇宙鳥に浮遊させられているマンモスとティラノサウルスの幼獣、そして見覚えるある女児と、その姿を目にすると熱いものが胸に溢れるもう一人の女児。その子が愛する娘、舞であることをもうはっきりと思い出していた。

「私には、あなたがたとも支配者とも違う一族と過ごした過去がある。宇宙鳥は、流浪者と名乗る彼らのテクノロジーです。いや、自然現象なのでテクノロジーとは違う。

「この地上の生命が生命場を形成している。宇宙鳥は、いわば負の生命場だと流浪者に聞きました。生物そのものではなく磁場のような生命場。『負』だからと言って、命を無に変えるわけでもなく、生命場とは表裏一体であり、生命場があるなら必ず存在するのが負の生命場。

「そして流浪者は、宇宙を流浪している知生体です。われわれ人類から派生・分岐した存在だと聞きました。

「あなた方、侵略者、いや時間旅行者は、人類の祖先であると彼らに聞きました。そして支配者は未来から到来している人類の子孫なのだとも。今、祖先と子孫が一触即発の状況にあるわけですね。そこに古生物の幼獣がからんでいるのが摩訶不思議なところ。

「支配者は未来から過去である現在に到来しているのだけど、風に巻かれた小石のように何の制御もできずに過去へ飛来しただけで、時間の流れを制御する能力をまったく持たない。時間を自由に行き来できるのは、侵略者だけなのだ、と。流浪者は、時空の中を流浪するのみ。ただ、彼らは宇宙鳥という『現象』を制御して亜空間の中を移動できる」

談が一通り話し終えると、侵略者が言った。「古市談、あなたがわれわれのことをよく知っていたのは、流浪者から聞かされていたからかとも思われますが、あなた自身が流浪者なのでは? あなたの娘もその血統を受け継いでいるのでは? 根拠のない話ではない。あなたが娘さんの話をするとき、あなたの左のうなじにある痣から、虹色の六角形が浮かび上がってるのがよく見えます」

談は急に頭痛に襲われる。「あの子が宇宙鳥を呼び出して制御したのかもしれませんが、これ以上考えることができない。意識が飛びそうです」

舞に会いに行かなくては…と焦る気持ちと裏腹に、意識が遠のいてしまう。

20★

水木とヴェロキラプトルの闘いは当面延期となった。震源の大阪では、都心部の梅田が震度七に揺れたが、津波も火災もなかった。だが、木造アパートなどく、梅田界隈にまだ残っていた古い建物が数十棟倒壊して数百人の死者が出た。萠子の自宅があるグランフロントなど、近年、特に阪神大震災後に刷新された地域では死者がゼロだったのに対し、庶民が暮らす人口密集地で被害が顕著だった。これはまさしく大阪都の貧富の格差構造を表している。

上町断層は、縄文時代に砂州として形成されたのち、断層帯を生み出した大阪湾全体に及ぶ隆起活動によって頑強に固定化されたパラドキシカルなルーツを持ち、戦国時代には、その北端に大阪城が築かれるなど、お墨付きの頑丈さを誇っている。

実は、太古から地震に翻弄されてきた日本列島において、耐震性の観点から大阪や京都の方がはるかに首都に適していた。地震の巣のようなトラフ交差の上に立つ東京/江戸に五百年間も首都が置かれていたのは正気の沙汰ではない。どう見ても危険極まりない東京首都圏から目を逸らさせるためのスケープゴートとして上町断層が過度に危険視されていた。

コロシアムの上空で待機していた二組の幼女・幼獣ペアはタオ飯店に宿泊することになった。美亜ちゃんの父を最初に見つけたのはティーラだった。サックスのリード慣らしをしていた誠一に気がついて、鋭い声で鳴き始めたのだ。誠一とは二週間ほどしか一緒にいなかったはずなのに、サックスの音を憶えていた。

ティーラは、ますますフクロウに似てきた。モフモフの羽毛、前向きに植わった丸くて大きい目玉。磯の石鯛のようなくちばし。鋭い爪が備わった後ろ足。だがしかし、もう成鳥のフクロウをはるかに超える体重二十キロに達しているので、とてもじゃないがヒヨコと呼べる小ささではない。最も大きな違和感を与えるのは、羽ばたく翼が欠落していること。

翼がない代わりに、小さな、しかし鋭い爪を奢られた一対の前脚。餌の鶏肉をその前脚でしっかり掴み、鋭いくちばしで引きちぎる。鶏はお前たちの子孫なんだぞ、とからかっても無視してついばみ続ける。そして、人類は子孫に支配されている、と嘆息を漏らす者がいるとしたら、それは談だ。

談は祖先たちとの会合の最中に意識を失い、舞から遠くへ移された。「あなたの娘さんがタオ飯店にいます。だが、こうして意識を失いかけるほどの事情があるので、今は会わない方がよいでしょう。娘さんは、四歳のときに不治の病を患っていることがわかりました」と侵略者が音声を介さずに話した。

談は思い出した。舞は脳幹部グリオーマに冒されていた。現生人類の現代医学では根治不能。あと二年生きられれば良い方だと医師に聞かされた談は、自分が血統を一部受け継いでいる「流浪者」に頼ることにした。

二年前、相模トラフ震災のニか月前、談は祖父母から極秘裏に伝えられていたが、家族の生死に関わる場合以外は厳禁されていた方法で流浪者に連絡を取った。舞を助手席のチャイルドシートに座らせて、奈良の多武峰(とうのみね)へ向かう。談山神社近くの林道に停車し、祖父母の家の蔵に眠っていた蛍光緑色の金属(おそらくウラン)の文鎮を取り出し、決められたリズムを刻みながら鉛の板に打ち付ける。

談の左のうなじの痣が熱を持ち、凄まじい虹色の閃光を放った。研究所の職員のような白衣の男女五名が空から虹色の紐に吊るされた状態で現れた。彼らが流浪者だった。紐の先には宇宙鳥が群れていた。宇宙鳥は奇異なことに、それぞれ三本の足を有し、虹色の紐は中央の足につながれている。流浪者たちと舞、談は宇宙鳥に連れられて研究所のような施設へ飛んだ。そこで、舞に対してグリオーマを除去する施術が行われた。

除去が成功すると、舞の首元にも、それまで目立たなかった痣が浮かび、ときとして眩い虹色の閃光を放つようになった。その位置に発現した痣は、流浪者の証―談よりも純血度が高い次世代の流浪者としての証だ。

かつて流浪者たちは、明治時代に戸籍を取得せず、二十万人いた「サンカ」の仲間とみなされていた。談の父方の祖父母は、流浪者の血を引いていた。だが、彼らをサンカとして分類するのは不正確であり、流浪者たちが持つ不思議な力を何一つ説明できない袋小路に陥っていた。

不思議な力というのは、魔力や妖力に相当する力である。流浪者の祖先が武将や幕府の下で忍術使いとして雇用されていた時代もあった。海外各国で「忍者」と畏怖されているのが流浪者であり、流浪者は日本にしかいない。支配者にとっても、侵略者にとっても、日本を扱いにくい土地にしているのは流浪者の存在である。

21★

美亜の父、稲尾誠一は、数年前に重い病気と聞いたのに突如元気に現れた舞の姿にたいそう驚いていた。美亜と舞がここまで宇宙鳥に運んでもらった話をしても、誠一に疑う余地はない。在来の交通手段で来たとしても、純朴な幼女二人が幼獣二頭を連れて旅してくるのは難しすぎる。まだ、オカルトあるいはメルヘンな説明の方が説得力がある。

それに誠一は音楽家なので、言葉での説明にあまり重きを置いていない。とりあえず、タオ飯店のオーナーにしてアルト奏者誠一の招き主であるラオ氏にかけあって、幼女二人と幼獣二頭の寝床を確保した。ラオ氏は三人と二頭のためにスイートを用意してくれた。

ただし、二人の幼女に恐ろし気な話をして反応を楽しもうとする。「うちのレストランでは、恐竜の肉も出しているんだ。この翼のない巨大フクロウちゃんも料理人たちに恐竜だとばれたらステーキにされちゃうかもしれないよ」と。舞と美亜は、見知らぬ宿泊先で突然お化けや鬼婆の話を聞かされた女の子たちにありがちな恐怖心をありありと表情に浮かび上がらせる。

だが、ティーラ自身が不機嫌な九官鳥のようなダミ声を出して抗議する。マーモも場末のごみ箱横で酔いつぶれているアル中のトランぺッターのように悲惨な声で鳴いて哀れを誘う。

「まあ、いいか。…この二頭をレストランに連れてきてはいけないよ、お嬢ちゃんたち。それと、ライブ演奏へ連れて行くのも禁止だよ。二頭が変な声を出しそうだから」とラオ氏が話をやさしいトーンに転調して一段落。だが、恐竜を料理にするどころか、自分の趣味のために部下に死を命じる冷酷な男。部下の家族には十二分な見返りを与えたが…。

舞と美亜は、夕方、幼獣をスイートに置いたまま誠一の演奏を聴く。普通なら、わずか六歳の女児が出入りしてよい場所ではないが、ここは治外法権だ。しかも、お店のオーナーが目を光らせてくれている。

当日の演奏には、エルヴィンだったか、有名な米国人ドラマーもゲストで参加している。豪快なドラミングで知られる彼だが、一曲目は、静かなブラッシングでリズムを立ち上げる。そこへ誠一のアルトサックスが滑り込んでくる。

美亜はもちろん、舞も知っている曲、My Favorite Thingsだ。エルヴィンは、もう二十年以上前に亡くっているはずだ。本人ではなく、そっくりさんなのか? 関東圏のワームホールは、古生物の幼獣の復活以外にも、謎に満ちた現象を生み出していた。これは、ジュラ社が管理している「ネスト」では見られない現象である。

ラオ氏が管理している「風穴(風洞)」では、亡くなったはずのミュージシャンや映画スターに「会える」現象が最近になって発生している。今のところ、ジュラ社はその驚くべき超常現象を察知していないが、察知すれば大変な軋轢が二者間に生じることだろう。伝説のスターを映像やライブに登場させれば、古生物の幼獣を出演させるどころの収益ではない。

美亜と舞は午後七時近くになって、子竜と小象に餌をあげるために部屋に戻った。部屋のドアの内側には、ラオ氏が親切に手配してくれた鶏肉や野菜やミルクが置かれていた。

江東区から姿を消してしまった古市談の古くからの友人、鴻上直樹もその日の演奏を聴きに来ていた。彼は写真家だが、談との繋がりで稲尾誠一のDVDジャケットの撮影も担当したことがある。

演奏後、鴻上はタオ飯店名物のヴェロキラプトルの叩きに舌鼓を打ちながら、いつものようにタメ口で誠一に訊いた。「あのエルヴィン、本物そっくりだったなあ。まだ生きていたら百歳近い年齢かあ。風貌も演奏も大昔の映像でしか見聞きしたことのない最盛期のエルヴィンにそっくりだ。彼はここに呑みに来ないのか? DNAから復元されたクローン人間か何かかい?」

「鴻上さんが今食べてるのだって、恐竜の肉の叩きなんだ。大震災後、関東では従来の常識では考えられないことばかり起きている。死んだはずのミュージシャンが二十年どころか、四十年、五十年前の全盛期から復活したとしても異論を唱えるのは筋が通らないよ」

「恐竜の肉にしても、生き返ったエルヴィンにしても、DNAで説明が付くだろ? 俺はDNAからの復元説を信じてるし、ほかの説明はできないと思ってるんだが…」

「エルヴィンは、呑みに来ないよ。彼は、あまり長居できない理由があるらしい。しかし、あそこまでスイングするドラマーとセッションした記憶はないよ。そっくりさんじゃなくて、本物だと確信する。それがどうして可能なのか、仕組みはまったくわからないけど。
「だが、可愛い娘とそのお友達がもうすぐ晩飯を食べに来る」

「そういや、さっき幼い女の子二人組を見たなあ。あの片方が稲尾さんの娘さんだったのか。で、もう一人は? ―うーんと、まさか古市の娘さんか?」と鴻上がさざめき立つ。「地震の数か月前に『娘がもう二年も生きられないかもしれない』と彼に聞いたのを思い出す。でも、今は元気なんだ。こんな社会情勢の中で大阪から幼女が二人っきりで来たとは考えられん。稲尾か古市の奥さんが一緒なのか?」

「二人と二匹で飛んできたのよ」と、二人が食事をしているボックス席に現れた女児の一人が誇らしげに口を挟む。もう一人、舞も言葉を補足する。「あたし、病気だったみたいだけど、もう治ったんだ。病気が治ると、宇宙鳥を呼べるようになった。だから、宇宙鳥たちに東京まで運んでもらったの。お父さんを探して冒険旅行中だよ。美亜ちゃんはお父さんと会えたから、次はあたしの番…」

22★

談は、萠子のことも舞のことももう完全に思い出していた。自分の前職についても、だいたい記憶が戻っている。舞に接近すると意識が遠くなる理由についても見当は付いている。

宇宙鳥を操る力は、自分より舞の方が遥かに強い。自分は流浪者の血が混じっているだけの一般人だが、舞は、祖母からの隔世遺伝により百パーセント純血の流浪者だからだ。現代になっても、いや歴史上のどの時点においても、一般人と混血しているはずの流浪者の血統が絶えなかったのは、祖母から孫の女子に隔世遺伝する仕組みによる。ミトコンドリアが関与しているらしい。

流浪者たちがグリオーマ除去に全面協力してくれたのも、舞自身が次世代の流浪者だからだ。例の虹色の図形を空中に発光させる痣の位置にも規則性がある。純血なら前方の首元、混血なら後方のうなじに痣が現れる。舞の場合は、脳幹に発生したグリオーマが正常な位置への痣の発現を妨げていた。腫瘍を除去したら、痣が正常な位置に発現した。

舞が近づくと意識が遠のくと言うより、宇宙鳥が近くにいて、自分が制御できていないと意識が遠のくようだ。しかし、舞は少なくとも東京にいる限り、宇宙鳥を常に呼び出して操ることが可能なスタンバイ状態にいるはずなので、舞には会えない。

談は、東京から北へ八十キロほど離れた栃木県佐野市に滞在していた。そこにも小規模なワームホールが震災のエネルギーにより穿たれていて、侵略者(時間旅行者)が活動拠点として使用している。談は、侵略者に匿われているような状態だった。

「あなたの奥さんが支配者の手先として活動しているようです。あなたが流浪者の血統の者とわかった以上、あなたを奥さんからも保護する必要があるのは皮肉な話です」と砂漠民のようないでたちから言葉を発する。

そんなことを言えば、支配者の手下の萠子に育てられている舞はどうなるんだ? しかし、流浪者側の人間として侵略者に相談できることでもない。そのワームホールには古生物の幼獣は現れず、侵略者が過去からの時間旅行に使用している。

「古市さん、最近、私たちは古生物の幼獣以外に、過去の有名人を復活させる実験にも着手した。まだ試験段階なので、実績は数例程度と薄い。今のところ、マニアックなファンがいたミュージシャンや俳優程度に抑えている。時代を支配したほどの有名スター、さらには歴史上の偉人を復活させるところまで行ってよいものか、判断が難しい。

「支配者は人類の未来をデザインし、人類がそのとおりに経済やテクノロジーを発展させるように導いてきた。だが、二十一世紀に入ってから、支配者の計画にずれや狂いが生じている。支配者は、人類の歩みを補正する手段として災害や疫病を引き起こし、制御してきた。相模トラフ震災も、支配者が引き金を引いた。

「彼らが関与して地震が起きるたびに、私たち侵略者にワームホールが与えられ、私たちの活動範囲が拡大してきた。支配者たちが『補正』と称して引き起こす災害や疫病は確実に人類を弱らせている。

「支配者は人類の組織の上層に『人』として入り込んでいる。彼らは現生人類の子孫なのだが、ネオテニー化が進んでいる。一目見ればわかる―性別不明で幼く見える姿かたち。知性は高くとも、個人的危険やプレッシャーにされされたときの彼らのメンタリティは脆弱だ。

「支配者は、自分たちの直接の配下にある政府機関などにAIの導入を進めている。ただでさえ高い彼らのIQをAIで増強する必要などなく、増強すべきはEQ(心の知能指数)なのに…。私たち、いや現生人類から見れば、AIこそ、支配者のアキレス腱となる。私たちはAIの専門家ともコンタクトを取っている。

「ただ、一つ注意しなければならないのは、AIが弱点に見えるとしても、人類をAIに置き換えることが可能だという点。それと、支配者はもうすでにAIに置換されているかもしれないという点…。

「古市さん、AAAに潜り込ませている者からの報告によれば、あなたの奥さんは、支配者の直接の配下にあるが、支配者の脆弱なメンタリティにはすでに気づいていて、自分の部下の若者たちを守る必要性を感じている。さらに、私たちがコンタクトを取っているAI専門家とも繋がりができたようだ。

「奥さんのことは、私たちも見守っているし、本人も支配者の言いなりになりそうにないので、ご安心ください。娘さんのことは、私たちの制御を超えていますが…」

そこまで聞いて談は、「私と流浪者たちの間で解決すべき問題ですね」と返した。流浪者たちと明示的にコンタクトする必要がありそうだ。

流浪者は、人類から派生・分岐した存在だというが、いったん地球外に移住した者たちの子孫ではないかと談は考えている。宇宙船などなくても、宇宙鳥という「負の生命場」を利用して亜空間内を移動できるのだから、自分が流浪者たちの祖先なら、きっと別の惑星に移住しているはずだ。で、自分も半分はその血を引いている。

若いころから冒険旅行に出たくてたまらなかった。実際、アフガンでトラック運転手をしたり、スーダンで傭兵をしたりした。自分より、流浪者の血が二倍濃い舞は、六歳の幼さで治外法権地区まで冒険旅行に飛び出した。

死者・不明者五十万人に達した相模トラフ震災では、舞ぐらいの歳の子も大勢が命を落とした。ここまで大勢の命が無差別に失われたのは二次大戦以来のことだ。日本全体の空気の中で、命の重みが失われていないか?

舞のこれからの安否を考えると、気が狂いそうになる。しかし、流浪者の血を百パーセント純血で引き継ぐ舞は、自分以上の冒険者なのだ。ともかく、舞が宇宙鳥の支配権を持っている状況で自分の意識が遠のく問題については、純血流浪者の皆さんにご教示願おう。

23★

萠子は咲子と二人、呆然と空を見上げていた。舞と美亜が幼獣の背中に乗って姿を消した後、虹色の閃光の残滓がしばらく空中に残っていた。談のうなじや舞の首元に見えたのと同じ虹色の閃光だった。

「あの不思議な三本足の鳥、合気道にも遠からぬ縁のある『ヤタガラス』に似ていたわ」と咲子がうつろな表情で言葉を漏らす。萠子は「あの不思議な鳥たち? 私に言わせれば、まさしく談のお伽噺に出てくる『宇宙鳥』だったんだけど…」と返す。

「『古事記』に神武天皇の案内役として登場しているのがヤタガラス。『導きの神』だそうよ」

「導きの神が二人を連れて行ったというわけ? 談のお伽噺ではいつも宇宙鳥としか呼ばれていなかったし、談から日本神話に関する話は聞いたことがないわ」萠子は咲子の話に共感できない。

まあしかし、二人の目の前で「我が子」がヤタガラスだか宇宙鳥だかに連れられて空に姿を消したことは紛れもない事実だった。マンモスやティラノサウルスの幼獣が現れたり、現実にありえないことが立て続けに起きている。二人は東京へ行くと言い残していた。

一時間後、咲子の携帯電話に着信があった。「旦那からだわ」と応答する。しばらく話し込んでいたが、やはり東京府江東区の誠一の仕事先にに二人の六歳児が現れたという。これで一安心だと二人は胸をなで下ろした。

「美亜は合気道に興味を示してくれないわ。音楽の才能は旦那から遺伝しているみたいなんだけど」と咲子がこぼす。「舞ちゃんもお父さん似なのかな?

「女の子なのに『冒険旅行』なんて発想自体が男の子みたいだね。もう少し年が行けば、女の子っぽくなるかもしれないけど、私は合気道の先生で、萠子さんも国防省の調査官、女らしい見本にはなれないかもね」と咲子が笑う。

大阪都の地震被害は、阪神淡路大震災より、遥かに軽くて済んだ。阪神淡路大震災では、兵庫県と比べて大阪の被害が軽いと非難するかのように言われたが、当時の大阪市内でも全半壊家屋が数千軒あり、死者数は二十名近くに上った。その後、高速道路や橋梁、河川・海岸の護岸などのインフラに念入りな耐震工事が施され、次なる震災に備えていた。その甲斐があったと言えるし、震度七が地盤の緩い梅田界隈に集中したが、梅田界隈は近年耐震に配慮した新しい建築物に積極的に刷新されていた。それがこの国の技術力だった。

マグニチュード7・5が想定されていた上町断層が動いた地震だったが、マグニチュードは6・8であり、大阪都以外はさほど影響を受けていない。このため、上町大震災とは命名されず、上町地震と呼ばれている。

そういった背景もあり、大阪都の活動休止は数週間にとどまった。AAAなどの国家機関は、震災当日ないしは翌日から活動を再開していた。萠子も、東京の治外法権エリアに出張した二人の部下と震災当日から電話でやり取りしている。電話回線が完全に停止した相模トラフ震災以降、携帯電話網が大幅に強化されてきたためである。

電話に出た水木の様子に不穏なものを感じた萠子だったが、部下よりむしろ上官の動向に不安を禁じ得ない。震災後の翌々日から落合管理官と内線電話で連絡を取っているが、「コミュ障」の若者と話をしている気分にすらなる。「水木と焼津には、まだしばらく江東区の治外法権エリアを実地調査させようと思います」と萠子が報告しても、落合管理官は直接返事をせず、「地震は怖いデスネエ。国防省第二本部ビルに出勤してくるのが苦痛でした」などと無関係な言葉を発する。万事がこの調子であり、話が噛み合わない。

かと言って、部下の萠子から「ちゃんと返事をしてください」と促すわけにもいかない。管理官は、確かに頭が切れる。なんで知っているかわからない現場の状況の詳細をちゃんと把握していることに驚かされる。先ほど電話で話しているときに少し大きめの震度四(@夢洲)ぐらいの余震が起きた。すると管理官は幼い子供に戻る。「ママぁ、地震怖いよ―。助けてー、傍にいてー」と泣き叫び出す。

いったん管理官が「子供返り」すると、萠子には手の付けようがない。この前みたいにセキュリティ要員の出動が必要になる。萠子は、まだ落合以外の管理官と話をしたことがない。管理官の中で落合は普通なのだろうか? このAAAという政府機関は万一の有事にちゃんと機能できるのか?

萠子には、落合が煮詰まったときに見せる残酷さを想像できなかった。水木と焼津が治外法権エリアで何らかの致命的な失敗を犯したとき、AAAの名誉のために自決しろと命じる冷酷さを備えているなど想像もできなかったし、日本国の歴史を通じてまだ適用されたことが一度もなく、適用された被疑者が有罪となれば死刑以外の刑罰が用意されていない外患誘致罪を伝家の宝刀のごとく振り降ろす鬼と化す落合管理官の姿は想像もできなかった。でも、極限まで高い知能指数を持つ彼ら支配者の子弟は極限まで「低い心の知能指数」を持っている。

萠子は、震災後わずか一週間の時点で夢洲から赤い愛車を駆り、京都市内へ向かった。名神高速はまったく無傷だった。シービュー社の伊藤氏から、AAA事務局へ直接送付されると当たり障りがある小さな装置を受け取るためである。暴走した管理官とAIの接続を切断するために必要となる。四センチ×七センチほどの小箱だ。萠子は、こんな装置を使えば、自分が外患誘致罪の嫌疑者になりかねないことを理解はしている。ただし、外患誘致に該当するのは、広義の侵略者と結託している場合だけのはず。

だが、シービュー社の伊藤氏は、とうに狭義の侵略者と結託している。さらに萠子の夫、談は流浪者の血を引いているが、侵略者の息がかかっている。萠子は非常に危うい立場にいる。

「この装置を対象者の五メートル以内で操作すれば、AIとの非接触接続が切れるはずです。周波数は、この間お渡しいただいたメモの数値にプリセットされていますが、調整も可能になっています」伊藤氏が簡単に説明する。そして、「ま、私はこういったハード面が専門じゃないので、ご質問があれば、装置に印字されている電話番号までご連絡ください。最初にパスコードを入力する必要がありますが、パスコードはこちらになります」と言って、萠子に小さなカードを渡す。

AI切断装置をシービュー社から購入した自分の行為はAAAへの―国防省への背信行為に当たるだろう。シービュー社に調べが入れば一巻の終わりだ。腐った権力者にこの世から消された父を持つ萠子には、そのぐらいの覚悟は出来ている。萠子は、念のため、落合管理官の言動をすべて録音している。

一方、萠子の部下、水木はティラノサウルスより遥かに小柄なヴェロキラプトルとの勝負に燃えていた。死闘は一週間延期されたが、萠子には以下のように説明した。「課長、江東区の治外法権エリアには、噂どおり恐竜が棲息している模様です。カジノ&コロシアムで人間と恐竜の死闘が多数の観客と掛け金を集めています。恐竜に似せたロボットではないかという疑いを払拭するために『潜入』して操作するこ必要がありそうです。許可を願います」

「何をどう潜入すると言うの?」と口を開いた萠子だが「治外法権エリアだから、通常の合法・非合法の縛りはないわ。現地人とトラブルを起こさず、あなたたちが命を危険にさらさないことが絶対条件よ」と大甘な許可を出す。

その返事をもらって有頂天になった水木は、「課長は物分かりがいいよ」と焼津に嬉しそうに話す。焼津は「僕は課長の許可なしに人と闘ったし、水木だって上町地震が起こらなかったら許可なしで恐竜狩りを始めていたじゃないか」と皮肉なコメントを返す。

「ところで…、中止になった瞬間のことを思い出すんだが、二人の幼い女の子がラプトルと俺の間合いの真ん中に一瞬だけ姿を現して消えた気がするんだが、焼津は何も見ていない?」と水木に問われて、焼津は「何も見ていないよ。幻覚だろう? …ただ、虹色の火花のような物が空中に見え隠れしていたように感じたが、横揺れが来たときにたまたま目を擦っていたから、そのせいだろうと思った」

24★

萠子は、またもや落合管理官に呼び出された。いつもとは打って変わって、きりりとした口調。「あなたの部下のことで確認したいことがあります。至急面会を希望します」と内線んで伝えられた。萠子は、例の切断装置を使う機会がさっそくやって来たかもしれないと覚悟した。

萠子が管理官室に入ると、いつもよりきりっとした白いワイシャツに身を包んだ管理官が唐突な演説を始める。「若い人たちが身を挺してこの国を守ってくれた歴史を忘れてはならないでしょう。今も、この国が重大な局面を迎えています。あなたの部下の若者二名も身を挺する精神をもって、国防省への入省を希望したに違いありません。

「二人は治外法権区域に潜入中だと聞きました。私が調べた情報によると、二人はAAA所属であることを明かさず、一般人としてギャンブル対象の試合に参加しているとか」と落合管理官が萠子の知らない詳細まで知ってることを明らかにする。

「ギャンブルの対象ですって? それは即刻止めさせないと」と萠子がヒステリックに反応する。「まあまあ」と落合管理官が萠子を制し、続ける。「二人に挺身の精神があるなら、わからないことでもないです。焼津は総合格闘技の鍛錬を積んでいて、相手に大怪我を負わさずとも勝利できるほどの達人です。問題は水木…」

「えっ、水木に問題がありますか?」と問い返す萠子の心には、若い兵隊は死んで故郷に錦を飾れと言わんばかりの落合管理官への不信感が砂嵐の前のように爆発寸前で静まり返っていた。

「水木個人に問題があるというより、彼が闘おうとしている相手は恐竜なのです。本物の恐竜かどうかがまずわかっていない。本物かどうかを調べるには、水木が勝利して相手を解剖もしくは調理するのが最もカンタンです。人間は、どれぐらいの確率で恐竜に勝てるのかを知っておくヒツヨーがあります。さらに、負けた人間は、どう処分されるのか。
「闘う相手が恐竜の場合は、人間の勝率が圧倒的に高いことがわかっています。だが、恐竜以外の、主に氷河期に生きた肉食獣の場合は、人間の勝率が十分の一以下に落ちます。
「そして、今回はヴェロキラプトルとの闘いが直前になって中止されたことにより、水木の対戦相手が恐竜からスミロドンに変更されるようです。スミロドンはサーベルタイガーの名でも知られています。
「水木がスミロドンに勝利できる確率を今、私が把握しているデータから算出してみると……」と述べるところまでは人間の言葉を発していたが、ふざけているとしか思えない電子音やブザー音のような不連続で突拍子もない変化を伴う嗚咽音を発し始める。

そんな中で、管理官が狂気を帯びた言葉を断末魔のようなかすれ声で吐く。「ジーッ…もし水木が敗北することがあれば、水木は肉食獣の餌になるとハンメイしました。誇り高きAAA捜査官たる者、猛獣の餌になる前に、ジ・ジ・ジ・ジケツですよん。ジッツジジジジジ・ジーケツ・ジーケツ」と暴走が始まる。

管理官の眼球は裏返って白目が剥かれており、死を目前にして、樹液の成分がほぼ残存した最後の放尿を完了したアブラゼミのような奇声を発している口元からは、歯が抜け変わる五歳児のように涎が垂れ落ちている。萠子は例の切断装置を手元に隠し持ちディスプレイを覗き込む。「接続中」の文字が最高強度を意味する蛍光緑色で表示されている。

父を亡くしてから世の権力者への憎悪をおくびにも出さず、密かに心に宿して生きてきた萠子は、今、AIとの接続を絶ってやろう!―と閃く。AIから切断すると何が起きるのか? よくわからないが、〔切断〕ボタンを押すのは今しかないのだ。さもなければ管理官はAIに接続されたまま、この前のように暴走のループに呑み込まれる、と衝動的判断が沸き起こる。何らかの電気回路の故障を示すかの!プス・プス!という動作異常音が鳴り、管理官がチェアから横倒しに転倒する。倒れたままピクリとも動かない。

セキュリティ要員が現れた。ボタンを押しても押さなくても彼らは現れただろう。ただし、ボタンを押した場合は萠子も、管理官と一緒にセキュリティ要員に連行されることになる。――セキュリティ要員の一人が萠子が手にした小箱は何だ?と詰問すると、しどろもどろな萠子の返答に対して、「連行します」と宣告し、萠子の腕を拘束した。

萠子は、AAAの課長という身分にも関わらず、取調室のような部屋に囚われた。そんな部屋があることさえ知らなかった。自分は、ここで犯罪者のように取り調べを受けるのだと悟った。

しばらくすると、体格の良い男が現れ、「セキュリティ監察官の大沼です」と名乗る。監察官と言っても、警察組織の中の監察官とは異なる。「まず、その小箱を見せてもらえますか」と大沼が萠子に命ずる。

大沼は、阪急電車のようなマルーン色の小箱を掌の中で裏返したりして、つぶさに調べる。「ほー、シービュー社の製品ですか。まさか、こんな玩具みたいな装置が管理官に致命傷を負わすなんて…」

致命傷! 萠子は、視野がいびつに歪んでぐるぐる回り始めるのを感じた。「管理官が死んだの? 私が殺人者?」

25★

水木は、剣闘士のコスチュームに身を包んで、死闘に備えた。コロシアムの運営者に呼びつけられ、対戦相手のヴェロキラプトルが病気で死んだと伝えられる。このため、相手は「剣歯虎(けんしこ)」に変更された、と。恐竜を凌ぐ獰猛なネコ科肉食獣だ。相手にとって不足はないでしょう、と中国伝統服姿のコロシアムスタッフが微笑みかける。

「サーベルタイガーの場合、難点は肉が美味くないこと。ヴェロキラプトルは、雉を思わせる高級ジビエ肉ですが、サーベルタイガーは筋っぽいネコ科の肉なん
です。あまり入荷しないし、たまに対戦が行われても、サーベルタイガーは負け知らずなので、食材になる機会も少ないし…」とまで話してスタッフが口をつぐむ。

同時に、水木の携帯電話から呼び出し音が鳴る。大阪本部からだ。「あ、お疲れ様です、川村先輩」と水木が応じると、「水木君、課長が拘束されたのよ!」と水木より四学年上の川村が切羽詰まった様子で話しかける。「落合管理官に致命傷を負わせたと言うのよ! 警察には引き渡していないみたい。当面の間、私川村があなた方に指示を出すことになったわ。一応、日報には目を通したけど、現在何を行おうとしているのか教えてくれる?」

「致命傷って何ですか? あ、僕はこれからタイガーと試合です。タイガーは強いらしいので僕も致命傷を負わないように気を付けないと…。結構、ガクブルものです。で、課長が致命傷を与えたって、殺したって意味ですか? その話も超絶ガクブルなんですけど」

「殺す気はなかったようで、管理官に妨害電波を浴びせてAIから切断しようとしたらしいのだけど、そのための装置を京都のAI関連メーカーに特注していたらしく、 シービューというメーカーの担当者も地下の部屋に拘束されているわ。

「タイガーって、プロレスのデスマッチにでも出るの? 水木は事情を手短に説明した。「確かに治外法権エリアでは恐竜が棲息してるらしいけど、対戦相手が病気で死んだから剣歯虎と闘うことになった、というわけね。話がぶっ飛びすぎて付いて行くのに必死よ」と川村が納得した様子を見せる。「課長が管理官を死なせた話が一番ぶっ飛んでると思うけどね」

川村は咳ばらいをしてから続ける。「あなた方の関東出張は、亡くなった管理官も了承なさっていたのだから、任せられた任務の遂行に専念してください。落合管理官も草葉の陰から見守ってくださってるでしょう」

水木は電話を切った後、焼津と話し込む。「AAAは、法務省じゃなく国防省の所管だから、今のところ、古市課長は拘束されているだけで逮捕はされてないみたいだ。この先、課長に殺人とか過失致死の容疑がかかったら警察に引き渡すことになるのかな?」

焼津が考えうる最悪の懸念を吐露する。「AAAお得意の外患誘致罪の嫌疑がかけられたらヤバくね?」水木は焼津と顔を見合わせる。

焼津が付け加える。「京都のシービュー社が供給した装置で管理官が命を落としたのなら、シービュー社が関わった陰謀の可能性もある」

逮捕や捜査を警察が行わないとしても、外患誘致罪で有罪となるかどうかは裁判所で審議される。萠子はAAA本来の任務に当たる部署とまったく接触のないまま過ごしてきたが、外患誘致罪の訴追が本来の任務の一つであった。だが、萠子は担当者と全く面識がなく、彼らの氏名すら知らなかった。それ自体、実に不自然なことであった。

取調室と同じく地下にある留置室に寝泊まりしながら、萠子は自分がAAAに採用され、採用後わずか一年で幼獣調査課の課長に任じられたこと、そしてAAAの他の部署との接触が一切なかったこと自体、陰謀めいていないか、と疑いが膨らんでいく。

セキュリティ監察官の大沼が拘束当日以来三日ぶりに取調室に現れた。大柄で筋肉質な体つきに見えるが、落合管理官に通じる人間離れした雰囲気が漂う。敢えて言うならアンドロイドのような人工的な無機質さだ。「あなたのご主人は弓道四段だったそうですね。私は柔道五段です。二人が弓道と柔道で闘ったら、弓道が勝利しますよ。弓道家が弓と矢を使ってよい限りは…。
「もう薄々お気づきのようなので、落合管理官や私自身に関する秘密を明かしましょう。二人とも生身の人間ではありません。生体と機械が融合しています。
「AAAの上層部は、ほぼ全員が私と同じく機械生体融合体です。機械生体融合体の命があれほど簡単に奪われたことに驚いています。で、そのために使われた装置には、私たちが『侵略者』と呼んでいる者たちの技術が使われているようです。
「シービュー社の伊藤氏も身柄を拘束していますが、彼女が侵略者の一人でないことは確認できました。しかし、侵略者と結託して、古市さんをだまし、日本政府機関であるAAAに武力を行使した。…もう、お分かりですよね?」

「えっ?」と声を上げる萠子。このアンドロイド男は、この絵に描いたようなシナリオから導き出される恐ろしいプランを口にしようとしている。外患誘致罪で有罪判決を出すという―。

「ところで、現生人類のテクノロジーでは、私みたいな機械生体融合体は実現されていません。私たちは、あなたの子孫なのです。あなたが母であり祖母であり曾祖母であり…。人類の未来はある一点で終焉します。そこで機械と融合された脳と肉体を与えられた後、現代に転送されてきたのが私たち『支配者』なのです。私たちは未来の終焉点を回避するために、二十世紀初頭から歴史に修正を加え続けているのですが、いまのところ終焉を回避できていません。
「伊藤氏を日本史上初の外患誘致罪有罪判決へと導くことが当面の目標となります。伊藤氏以外のシービュー社スタッフが有罪で死刑になってもよいのですが、今のところ伊藤氏を有罪にする方が証拠も揃っているし確実ではないかと…」とまで話して萠子の怒りに震える顔を覗き込むと、「古市さんも外患援助罪に該当する恐れがありますので、ご自愛ください。伊藤氏の有罪へ向けて協力してくださるなら話は別ですが」と誘いをかける。

「問題は、『侵略者』の存在を法廷でどう立証するかなんだよなあ。この裁判では、現在のところ機密事項である我々支配者の存在は問われないけど、侵略者が今の日本にどう関与しているかを裁判官たちに理解させないといけない。これが面倒なんだわ。

「あ、そうそう、侵略者は『時間旅行者』とも呼ばれていて、砂漠民(ベドウィン)みたいな服を着て過去から時間旅行してくる連中なんだ。なにかと私たち支配者に背きたがるあの連中は、現生人類の祖先だと思われる。過去から現代に何かを送り込むのが得意だ。
「侵略者ではないが、侵略者と紛らわしい者たちもいる。古市課長も縁が深い『流浪者』だ。彼らの特徴は、虹色の光を出す痣。見覚えがあるでしょう? 彼らはヤタガラス使いでもある。流浪者を捕まえて侵略者として法廷に立たせることも検討している」

萠子の上半身は怒りにわなわなと震えていた。もしかして、流浪者である夫と娘を持つ自分をAAAに採用した時点で今回の陰謀が仕組まれていた?

大沼はサイコパスなのか? 恐ろしい思い付きを口にする。「妻と娘の命がかかっていると脅せば、さすがの古市談もこちらの要求どおりに振る舞ってくれるだろう」

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